資本主義とラプソディ

その年の日本の夏ほど、暑く眩い夏は初めてだった。
俺は東京のとあるアパートの一室で、扇風機一つでうだるような暑さ耐えしのいでいた。
ぼんやりと底のない青い空の中に、真っ白な雲がどこかへ流れていくのを帽子と視界の狭間から見ていた。
蝉の三重奏がかしましく部屋のなかに響き渡るなか、時折吹く生暖かい風と気温30度を超えた空気のなかで、まるで狙撃の時のようにソファーに仰向けになりながら知らせを待っていた。
垂れ流しにしていたテレビから、昼の時報が聞こえてくる。
丁度その時になって、誰かが玄関のチャイムを鳴らした。
「開いてるぜ」
言い終わるよりも早く、ドアが開いた。
「やだ、クーラーくらいつけなさいよ。この蒸し暑いなかわざわざ来たっていうのに」
まろやかでうるさい声とともに、白いバイクスーツの女はブーツも脱がず畳の部屋へずかずかと上り込んできた。
「ルパンは?」
「知らねえよ。俺はてっきりお前のところかと思ったぜ」
ようやく俺の視界に入ってきて、女が乱暴に俺の帽子をはぎ取った。
「それはこっちの台詞よ。仕事があるって聞いたから来たのに、もう2日も連絡がないじゃない。次元、あんたと違って私はルパンを待つほど暇じゃないの」
返せ、とその倍乱暴な力で帽子を取り返す。
起き上がって粗末な木製のテーブルの上に乗せていた煙草を掴みとる。
一本咥えて火をつけると、それだけでも体感温度が上がった気がした。
「俺に八つ当たりするな。待たせてるのはルパンだろ」
ふぅ、と深く吸った白い煙を吐き出すと、女は俺を見下げて鼻をならした。
「ルパンがいないなら長居はしないわ」
女が出て行こうとした時、突然テーブルに乗せていた電話のベルが鳴りだした。
煙草を口の端に咥えて3コール目で黒塗りの受話器を取ると、聞き慣れたアルトの声が聞こえてくる。
『やっほ~次元ちゃん。お待たせ』
「お待たせじゃねえ、今どこだ」
ルパンね、と女がテーブルの上の俺の煙草を一本盗んだ。
自分の煙草を吸えよと言ったが、切らしてるのと平然と吸い始める。
『今?羽田空港だよ。不二子も来てるんだろ、一緒に来てくれ』
「不二子と?ごめんだぜ」
「なによ、こっちこそ願い下げよ」
まあまあ、と困ったように仲裁する声が、どっちでもいいから、14時までに空港のビップルームラウンジに来てくれと続けてそのまま切られてしまった。
女の香水と俺の煙草の臭いが混ざっているのに気付いて、不快感にイラつきながら女に声をかけた。
「喜べ、お前が待ってた仕事だろ」
「羽田ってことは海外ね。ルパンのことだから、日本より涼しい国で仕事するに違いないわ」
女はそういってルージュの跡をつけた煙草を吸殻の山に刺して、去り際の言葉もなく出て行った。
ハーレイのバラついたエンジン音が去る音とともに平穏が戻ってきた。
生ぬるい風がそよいだのに押されて、俺もあくびをしながら起き上がった。
「またあの女と仕事かよ」
うんざりしながらも身支度を始める。
ルパンと手を組んで数か月、3回に一度は絡んでくるあの女だけは嫌でたまらなかった。
俺が嫌う女の要素をすべて詰め込んだような性格と、すぐに裏切るおかげでどれだけ俺達が苦労させられるか。
深くため息をつきながら、燻っている灰皿に水をかけた。
そしてもう誰の帰りも待たないアパートの鍵を玄関の錆びついた銀のポストに放り入れて、この間盗んだ金で買ったベンリィにまたがる。
数度しか乗っていないが、乗り心地の良い愛馬のキーを回すと、日本製らしい行儀の良いエンジン音がぼろのアパートに別れを告げる。
「もうお前ともおさらばか。できたら日本に帰るまで、盗まれないでいてくれよ」
車体に合わせたブルーのヘルメットを被り狭い道を走らせたが、生暖かい風が涼しく感じられることはなかった。

**1**

ファーストクラス用のビップルームラウンジで煙草をふかしている時だった。
盗みのプランを練りながら、目の前のコーヒーを見つめていると、シャネルの五番が鼻に流れてきた。
「不二子ちゃ~ん!」
条件反射のように香りがする方に顔を上げると、バイクブーツに合わせたジーパンとキャミソールのセクシーな姿を見つける。着替えてきたらしく、胸元にスーツの跡が残っていた。
「ルパン!この私を2日もまたせたわね」
怒っていても美しいその女は、向かいの黒いソファーに腰を下ろし俺を睨みつけた。
「いやあ、ちょっとばかし準備に時間がかかっちまってさあ。ソビエトで美味しいウォッカご馳走するから許してチョーダイ」
「お酒なんかいらないわ。ちなみに私が好きなのはジン」
「そうだっけ。初耳だな」
聞いていないことも喋るのは女のクセだ。
俺は苦笑いしながら、ラウンジのウエイトレスにレディにアイスティーをと声をかけた。
「で、なんの仕事?お金にならなかったら怒るわよ」
「もう怒ってるでしょーに…」
「当たり前でしょ」
「まあまあ…もう少しで次元も着くんだろ?その時話すさ」
そう言っているうちに、ラウンジの入り口が開いた。
ボルサリーノとくたびれた黒スーツの男の雰囲気の悪さに、何人かの客が顔をしかめる。
「丁度よかった、次元、こっちだ」
手を振ると、髭と帽子で黒子のように表情の分からない様子で歩いてくる。
そして、4つ十字に配置されているソファーの、俺と不二子の間のソファーに乱暴に座った。
「なんでこの女も絡んでるんだ。俺は聞いてないぞ」
「それはこっちのセリフ」
ウエイトレスが運んできたアイスティーを飲みながら不二子が不機嫌に言った。
次元はかまわない様子で、ブラックと人差し指を立てた。
「ケンカするなって。今回はソ連でたった1晩だけだし、不二子にはお宝、俺達はスリルをもらう。分け前の分配で争うことはねえよ」
次元はそうかい、と煙草に火をつけてため息のような息を吐いた。
「それで、今度の獲物は?」
「ま、その続きは個室で話しまショ」
直ぐそばにあった個室への移動をウエイトレスに促し、会社の来賓室のような部屋に腰を下ろしなおした。
次元のブラックコーヒーが来たところで、俺は机にマトリョーシカを投げた。
「まさか、今度盗むのは宝石付きのマトリョーシカとか言うなよ」
次元がまずそのマトリョーしかを手に取って、中身を開ける。
いくども出てくる同じひょうたんのような人形を、机に並べ始めた。
「んふ、そういうお宝を盗むのもいいが、今回は違う」
不二子に1枚の写真を投げると、それを見て琥珀色の瞳が輝いた。
「なあに、この宝石。7つの層になってるのね、趣味はイマイチだけど、綺麗なものね。天然ものなの?」
写真を離さない不二子から写真を取り上げて、次元にも見せると、まがいものじゃあねえのかと直ぐに不二子に返した。
その写真には、オーバル・ブリリアントカットが施された、虹色が混ざり合う宝石が映っている。
「確かに天然ものじゃねえが、まがいもんでもないんだぜ」
「どういうことよ」
「こいつはな、1910年代のどこかの国の宝石職人が作り上げた芸術品なんだよ。
大きさはなんと百カラット。天然の宝石を削ってつなぎ合わせたらしいんだが、継ぎ跡なんてこれっぽっちも分からねえんだろ?」

コーヒーを飲む次元は興味なさげで、不二子だけが興味津々でセクシーな唇を動かした。
「虹の宝石ってわけね。オパールなんかより100倍素敵」
「しかも、下から光を照らすと大きなダイヤモンドのごとく白く光り輝くって代物だ。
どう、不二子ちゃん?協力してくれるだろ」
「これを私にくれるならね、ルパン」
魅力的なウインクを飛ばしながら不二子が言うと、次元は舌打ちをした。
「おい、女とイチャつくための仕事なら俺はおりるぜ」
次元がそう言って席を立とうとしたのを引き留めて、話は終わってないと続けた。
「次元、お前さんにも今回の仕事はやりがいがあるはずさ。ルーブルは手に入らねえが、帰りにスベルバンクからちょこっと金塊を拝借していきゃいい」
「金のためにやってるんじゃない、この女と一緒にするな」
「あら、お金ほど大事なものがないから私は大事にしてるだけよ」
「執着の間違いだろ」
すぐに口争いが起こるのをなだめて、次元にまた写真を1枚見せる。
「こいつは?」
「ソ連の狙撃手、雪の悪魔ってあだ名がついたエゴールって爺さんらしい」
「は、さしずめソ連のシモヘイヘか?」
「シモヘイヘとは違って、裏の特殊部隊で暗躍してたがな。もう80歳にもなるっていうのに、いまだ狙撃手として一流らしい」
ソ連語で雪の悪魔という名前のそいつは、写真をみるかぎりはどこにでもいそうな好々爺といった風貌だった。
「で、その爺さんを倒せっていうのか。年寄イジメなんざごめんだぜ」
「人聞きの悪いこと言うなよ。むしろその爺さんは敵なんだ」
「敵?エゴールも宝石を狙ってるの?」
不二子がようやく宝石の写真から手を離し、次元の手から写真を奪い取った。
「その逆さ。爺さんは宝石を壊したがっているんだ。美術館に忍び込み、宝石を打ち壊そうとしたところで一度逮捕されたらしいが」
「逮捕されたのに心配の必要があるのか?」
「つい先週に脱獄したらしくてな、しかもその後は行方知れずだ」
「つまり、ルパンが盗めば、そのお爺ちゃんは二度と破壊のチャンスを奪われる、ルパンは狙われるってことね」
「ご名答!さすが不二子ちゃん、美しさ以上に頭が切れるぜ」
フン、とそんなの自分も分かってたと言わんばかりに次元が鼻を鳴らした。
「80歳のジジイとはいえ、老兵を侮るもんじゃねえ。次元ちゃんも負けるわけにはいかねえだろ?」
「だから年寄イジメはごめんだ」
「はは、イジメられるのは次元ちゃんだって可能性もあるぜ」
『まもなく、モスクワ行き、14時30分の…』
そこまで話すと、俺達が乗るモスクワ行の便のアナウンスが鳴った。
次元が飲みかけのマグカップを置き去りに席を立つのを見て、少し安心する。
この男も、自分の美学に反するとテコでも動かないクセがある。
宝石と金の純度さえ保障してやれば乗ってくれる不二子よりも、正直やっかいな男だったが、今回の仕事には外せない。
「さあて、涼しいソビエト連邦で避暑といきまショ」
「やだ、おじさんくさいわよ」
「ダジャレなんてやめろ、寒い」
仲がいいねえ、と言うと、良くないと二つの声が返ってきた。

**2**

15時間ものフライトをかけ、モスクワに着いたのは深夜だった。
ファーストクラスとはいえ、長時間のフライトに疲れていた俺達は、そのままホテルへと向かった。
「ルパン、ちょっとこの男どこまでついてくるの。部屋は別々でしょうね」
不二子が後に続く次元を一瞥し、俺の腕を引いた。
「なぁに言ってるの、作戦の打ち合わせもあるんだから一緒だよ。
キングザイスベッドは不二子ちゃん専用だから、いいでしょ?」
宮殿さながらのこのホテルを歩いていると、俺達は若い実業家カップルで、次元はボディガードに見えた。
豪奢なつくりのエレベータを上がり、プレジデントスウィートというご大層な名前付きの部屋に到着する。
「ベッドルームもバスルームも2つずつあるから、不二子ちゃんは好きな方使って。
まあ俺と一緒がいいなら無理にとは言わないぜ」
案内のボーイがドアを開け、うやうやしく不二子を迎え入れる。
部屋の中を見て、俺に言い返そうと不機嫌に開いた口は感動で笑顔に変わった。
「なかなかいい部屋じゃない」
不二子の言う通り、部屋は豪華絢爛、豪奢で埋め尽くされた金色の部屋だった。
贅沢は知り尽くしている俺でも、なかなかの装飾に小さく口笛を鳴らした。
しかし、どんなに贅沢なものより、不二子の喜ぶ顔が美しくて、後ろにいた次元に小声で話しかけた。
「ああいう姿だと、いっそう愛らしく見えるだろ」
「お前にはそう映るだろうよ」
次元はそう吐き捨てて、テレビの前にある白いソファーへ寝転がった。
不二子は部屋の探索をした後、シャワーへ入った。
「不二子が上がったら、作戦の打ち合わせをする。コーヒーか何か飲むか?」
「飛行機で死ぬほど飲んだ。バーボンはないのか?」
「次元ちゃんねえ、会議に酒飲むやつがいる?」
「安心しろ、ヘマするほど飲みやしねえ」
そう言ってテレビをつけた次元にブランデーグラスを差し出すと、タブルを一気に飲み干した。
『明日、いよいよ公開が再開されます我が国の秘宝、光の奇跡と誉の高い「エンジェルトリバ」。先月は不審者による襲撃で一時は公開停止となりましたが、より一層の警護を増しての再公開が決定されました』
「おめえが言ってるのはこれか。エンジェルとかなんとか…」
次元が空になったグラスをテーブルに置き、少し顔色の良くなった顔で俺を見た。
多少言葉が分かるようだが、全部は聞き取れなかったらしい。
「ああ、天使のラッパって意味らしいぜ」
「七つ鳴り響くと世界に週末が訪れるとかいうやつか」
「そうそう。七つの光が集まると白くなる、世界が無色の光に包まれるって意味らしいな」
話していると、バスローブ姿で不二子がリビングへやってきた。
次元が据わっている向かいに座り、艶めかしい脚を際どい仕草で組んだが、次元はまったく反応せずテレビを見ていた。
濡れた髪をタオルで拭きながら、私にもお酒ちょうだい、と微笑む。
「ま~どんな宝石も、風呂上がりの不二子ちゃんほど美しくないけどな。がんばっても、引き立て役に過ぎないぜ」
特製のカクテルを作って不二子に渡してやると、ありがとうと不二子も一気に飲み干してしまった。
「さあて、明日の仕事の打ち合わせといきましょうかね」
空になっているグラス2つを隅に寄せて、美術館の地図をテーブルに広げた。
「不二子は、美人キャスターとして潜入する。クルーは手配してあるから、俺がダミーの騒ぎを起こしたらそっちにかけつけて注意を引きつけてくれ」
「それだけ?」
「あと一つある、逃走に使う取材用のバンを美術館の隣にある、ここの位置につけといてくれ。そのまま局に帰るフリをして、ここのホテルで落ち合おう」
火照ってすこし顔の赤い唇に投げキッスを飛ばしながら言うと、不二子はお安いご用よと席を立った。
「で、俺の仕事は?」
「お前はここのビルで、例の爺さんが狙ってこないか見張っててくれ。こっちのビルには警察も目を向けないはずだから、帰りはタクシーでのんびり帰ってきていいぜ」
「張り合いねえな」
「今回は銭型のとっつぁんも流石に来ねえからな」
「どうしてそう言い切れる。予告状は明日出すとはいえ、駆けつけないとも限らないぜ」
俺も立ち上がって、美しいモスクワの夜景を眺め始めた。
雑然とした東京ならまだしも、こんな美しく涼しい夜に銭型と追いかけっこなんざ、ごめんだった。
「そりゃ心配ないよ。だってとっつぁん、こないだの事件の時に脚を骨折しちゃったらしくてさ。1か月は動けねえはずだ」
「死んだって追いかけてくるような男が、骨折ごときで動けないことなんかあるのか?」
「それはそうかもしれねえけどよ、ま、心配するなよ。今回はスリル不足かもしれねえが、バカンスのついでの仕事なんだからよ」
次元は自分でキッチンから持ってきたバーボンをなみなみと注いで、今度はちびりちびりとたしなむ程度に呑み始めた。
「じゃあ、俺は仕事が終わったら有給をもらうぜ」
「せっかくなんだ、一緒にソ連の美女達を堪能しようぜ」
「不二子が怒るぞ」
「ま、不二子も俺とバカンスなんか、1日付き合えばいい方だよ。二日目からはフリーってやつ」
次元が飲んでいたグラスを奪い、大きく一口含んで飲み下した。
度数は高いが、飲みやすい口当たりで唇を舐める。
「俺はお前のお守りじゃねぇぞ。あと、女には用はない」
「じゃあ何に用があるってーの?」
「極上のウォッカ」
あらそ、と酒のことしか頭にない次元を笑い、シャワーを浴びようと席を立った。

**3**

翌日の夜、冷たい風の吹きすさぶビルの上に居た。
日本の生温かい夏の夜とは真反対の、凍えるような夜風に晒される。
「つまらねえ仕事だぜ」
雪の悪魔だかなんだか知らねえが、執念深い爺さんのためだけに呼ばれたことに深くため息をついた。
モシンナガンを抱え、貯水槽の脚にもたれかかる。
銃のスコープで狙撃に向いているポイントをチェックしたが、生き物などカラス1匹たりともいない。
こんなに寒い夏の夜だ。老体には堪えるだろう。
とはいえ、油断をするものでもない。
屋内からでも狙えそうな場所を見つけ、入念にチェックしていく。
やはり老人の姿は見えない。
だが、おかげで数人、ルパンを狙っていると思われるソ連警察のスナイパーを見つけることができた。
ルパンが盗みに入り逃走する数分間の間に、片付けるかと時計を見た。
まだ予定まで10分近く余裕があり、胸のポケットから煙草を取り出した。
かじかむ手を暖めるようにライターに火をつけ、煙草を咥えた唇に寄せる。
白い雪のような煙を吐き出した後、しばらく精神を集中させるように煙草を嗜んだ。
すると突然、頭上の貯水タンクに銃弾が撃ち込まれる音が鳴り響いた。
雨のように降り注ぐ飛沫に、銃を抱えたままコンクリートに伏せる。
水滴で濁ったレンズを拭き、辺りを見回した。
すると今まで影も形もなかった白髪の年老いた男が、同じ高さ程のビルから悪魔のようにしかめられた顔でこちらを見ているのを見つけた。
「あらわれやがったな、クソジジイ」
わざと貯水槽に当てたのは挑発のためだな、と俺も口角をゆがませた。
『次元、どうした。奴か?』
「ああ、やつだ。狙撃のやつらは悪いが始末に時間がかかる。バンをやられても空からは逃げるなよ」
『りょーかい、爺さんの肩を叩いてやりな』
一発ぶち込んでやれ、と言わんばかりの声に、俺も笑う。
張り合いのある仕事じゃなければ、楽しくなどない。
俺は屋上から非常階段へ移動し、先ほど老兵がいたビルを覗き込んだ。
80歳の脚では、そう早くは移動できないはずだ。
だが、屋上にすでに姿はなかった。
逃げたのか、隠れているのか。
80歳にしては豊かな髪と髭、まさに雪の悪魔にふさわしい白い顔を思い出す。
あんなにギラギラした年寄は見たことがない。
恐怖に裏打ちされた高揚感に、俺はビルを見つめ続けた。
『時間だ。次元、奴を倒し終わったらバックアップしてくれよ』
「オーケー、祝杯にはウォッカを準備しておいてくれ」
軽口を叩いていると、白い影が月夜で反射するのが見えた。
当てるのではない、当たる瞬間と角度を感じ取り一発撃ち放した。
俺を狙おうと頭を出した奴の銃に当たり、後ろに転げ落ちるのが見えた。
「引退したほうがいいぜ。老後くらい待たない人生をおくりな」
数分が経っても起きがってくる気配がないのを確認し、非常階段を下ろうとした。
その瞬間、からかうようなタイミングで手すりに銃弾が当たった。
また、俺を挑発するような、わざと外したと思えるような弾道に振り返る。
「いいのかよ、俺なんか相手してると、ルパンにお前の宝石が取られちまうぜ」
『んふ、とっくに手に入れてるよ。今、不二子のバンに乗り込んだ。…エゴールの爺さんはもういい、お前も引き上げてこい』
ルパンの最後の言葉は命令だった。
俺は名残惜しさを感じながら、別れの挨拶に奴のビルの貯水槽を撃ち抜いた。

**4**

ホテルに帰ると、次元がすでにそこに座っていて、一人で祝杯をあげているところだった。
「次元、お前が欲しいっていうから極上のウォッカを買ってきたのに」
「待てもできない犬みたいね。ルパン、あなた躾してあげたら」
グリーンのジャケットに合わせたイエローのドレスで、不二子が茶々を入れた。
今日の仕事も張り合いもないほどスムーズに進み、改めて祝杯だとウォッカを二人に回した。
「今日も上々だったぜ、カンパ~イ!」
俺の声とともに、不二子も虹色に輝く宝石を手に転がしながらウォッカを舐めた。
「ほんとうに綺麗ねえ。この宝石のために一国が滅んでも不思議じゃないくらい」
「け、そんな石ころ一つで国が滅んでたまるかよ」
既に出来上がっている次元は、不二子の言葉を一蹴した。
「ちょっとあんた、ムード壊さないでよ。
気分悪いわね。ルパン、あっちいきましょ」
不二子がそう言って俺の腕を引き、隣のゲストルームへと連れ込んだ。
次元は行け行けと煽って、ソファーに寝転がった。
どうして仲良くできないかねえ、とため息をつきつつも、不二子と宝石を肴にウォッカを飲み始める。
そして丁度、夜中の1時になった頃だろうか。
ホテルの中に呼び出しのチャイムが鳴り響いた。
「誰だ、こんな時間に」
「どうせ次元がルームサービスか何か頼んだんでしょ」
不二子は大分酒がまわったのか、俺にしなだれかかってネクタイを引いた。
「ねえ、ルパン。なんであんな男と組んでるの?嫌みったらしくて、暗くて。ルパンの好みじゃないでしょ?」
「どうして次元を気に入ったかってこと?聞きたいのか?」
「いいわよ、他の男の色気話なんて。反吐が出るわ」
ネクタイを解き、珍しく俺の首にキスをした。
これはGOサインだな、と服から逃げ出したい気持ちを抑えながらルビーのような唇にキスをしようとした時、突如として銃声が鳴り響いた。
「何事だ?」
俺が立ち上がるより前に、次元が部屋に駆け込んできた。
「ちょっとあんた!どこまで邪魔する気よ!」
「イチャついてる場合じゃねえ!奴が乗り込んできやがった」
また銃を乱射するような爆音が鳴り響き、俺は不二子を抱えて部屋の隅へと駆け寄った。
「ベランダから出ろ、ルパン。やつは入り口から来てる。一人しかいない」
「80歳の老人一人も始末できないなんで、あんたそれでも…」
不二子が喚こうとするのを抑えて、俺はベランダへ飛び出した。
ワイヤーを釣り、下を確かめたところで次元を振り返った。
「次元、お前も逃げろ!」
「うるせえ。おちょくられてタダでいられるかってんだ」
「落ち着けよ。ジジイだろうが、お前と張り合える爺さんなんてそうそういるもんじゃねえ。舐めないほうがいい」
「おい、ルパン!離せ!」
喚く次元の脇腹を腕にひっかけ、二人を抱えてベランダの縁を蹴りあげた。
急降下していく中頭上を見上げると、欠けた満月の光に照らされた白い悪魔が、こちらを見下すように見ているのが見えた。

**5**

「で、一体なにがあったんだ。次元」
逃げた先の車の中、ルパンが運転席の安っぽいソファーに座り俺に尋ねた。
不二子は機嫌を大いに損ねたらしく、あんたたちなんか嫌いよと富豪のところへ行ってしまったらしい。
「どうもこうも、お前らが頼んだルームサービスかと思ってのぞき窓を見たら奴がいたんだ」
「で、問答無用で撃ってきたのか?」
「いいや、違う」
助手席に座っていた次元は煙草に火をつけ、思い出すように上に煙を吐き上げた。
「あの宝石、エンジェルトリバはあるかと英語で話してきた。
俺が、女にくれてやったと話したら、奴は『ならここにあるのだな』とか言って、突然カラシニコフをぶっ放してきやがった」
「まあ、執念深いこって」
「ルパン、お前はあの女のそばにいなくていいのか?」
「あいつは強い女さ。それに宝石はここだ」
ジャケットの懐から虹色に輝く宝石を取り出し、次元に見せてやる。
オパールと違って乳白の濁りのないこの宝石は、見る角度によって透き通った輝きの色を変える。
「あいつにプレゼントするんじゃなかったのか」
「ああ、だからプレゼントしてやったさ。こっちが本物だがな」
俺の言っていることに納得のいっていない次元は、煙草の先を俺に向けてまた口を開いた。
「解せねえ。そいつがお宝の地図だとでも言うんじゃねえだろうな」
「実際に見てみろよ、そしたら分かる」
俺はそう言って、赤外線のライトを取り出して宝石を下から照らしてみせた。
そして特製のスコープを煙草の火に照らされている次元へ投げた。
そのスコープを覗いて、次元が声を出す。
「こりゃ、宝石の傷じゃねえのか」
「暗号だよ。この宝石をつくったやつは、とある秘密を暗号に隠してこの宝石に封じ込めたのさ」
「ロマンチックな話で感動するぜ。だが人に知られたくない秘密なら、墓場まで持っていきゃいいんだ」
吸い口だけになった煙草を灰皿受けに押し付け、興味なさげに助手席を深く倒し次元は寝転がった。
「人に言いたかったんだろうよ、どんな形であってもさ。でも気になるでしょ?本当は宝石に込められた秘密のメッセージを不二子に送るつもりが、とんだ邪魔が入りそうだぜ」
「もう既に入ってるだろ。それに、レプリカ一つで満足する女にそんなご大層なもんが必要かよ」
「今頃、ソ連富豪と酒の肴にして怒っているころさ。あいつも宝石を見る目はあるんだぜ」
後ろを確認したが、何の気配もない。
とはいえ車で野宿するにはここの夏は寒かった。
エンジンをかけ、ドライブにレバーを傾けてアクセルを踏んだ。
こっちで拝借したこぢんまりとした車だが、その分小回りも効くし馬力も申し分ないこの車も愛しいものだった。
当てもなくめぼしいホテルを探すために流していると、仮眠に入っていたと思っていた次元が声を出した。
「日本に帰らねえか。その暗号ってのは、日本でも調べられるんだろ。こんな寒い夏、俺はごめんだ」
わざわざついてきて損した、と言わんばかりの口調に苦笑いしながら、俺は車をUターンさせた。
「それもそうだな。エゴールの爺さんも、日本に隠れちまえば見つけられっこねえはずだしな」
本当は少々調べ物をしたかったところだが、急いでいるわけでもない、日本に取り寄せてもいい。
空港へと車を走らせながら、ラジオをつけた。
どこでも聞くようなニュースの後、チャイコフスキーのくるみ割り人形が流れてきた。
花のワルツとはいうが、夏にクリスマスの曲かよと次元も笑う。
「このままお菓子の国にいくのもいいかもな」
「は、その夏休みの宿題はいいのか?」
そう言って、次元が俺の懐から勝手に宝石を取り出した。
とはいえ、興味を持ったようではなく、煙草がわりの手慰みのようだった。
「夏の自由研究って、次元もやらされたか」
「覚えがあるなあ。枯れた朝顔のありもしねえ成長日記を書いてた」
「俺も無名の研究者が書いた論文に嘘の結論を書いてやったら、えらく褒められたのを思い出すよ」
「うそつきは泥棒の始まりってやつだな」
次元が喉の奥で笑って、新しい煙草に火をつけようとシガーライターに手を伸ばした時瞬間、助手席の窓ガラスを突き破った弾丸が次元の背もたれに直撃した。
「やつか!?」
次元が後部座席に移動し、外を伺う。
俺もアクセルを一気に踏み込み、人気のない国道をブッ飛ばした。
「やつだ、教会の上からこっちを見てやがる。もう一回くるぞ!」
そう言い切ったのが早いか、後部座席のガラスが砕け散った。
呑気に流れている花のワルツを切る余裕もなく、俺は次元に叫んだ。
「あいつは車を狙わなかった!挑発してるだけだ。それに無理して撃ち返してもこの距離じゃかなわねえ」
反撃するな、と釘を刺して空港への案内板をかすりながらハンドルを切った。
後ろで次元が転がるのも気にせず、空港の入口に一番近いスペースへドリフトで車を滑り込ませた。
皮肉にも、その時さっきから流れっぱなしだったラジオの音楽が止まった。
「ここまで来りゃ、大丈夫だろ…」
「いってぇ…頭を打った…こいつはコブになるやつだ」
「撃ち抜かれなかっただけいいと思えよ。急いでこんな国とは…」
げ、と思わず声が出た。
空港の出入り口には、見たことのある男が数人の部下を携えて立っているのが見えたからだ。
「こんな時にとっつぁんかよ」
「どうやら、空の便は使えねえらしいな」
銭型は痛々しく松葉づえをついていたものの、元気そのものという顔で辺りを警戒している。
とはいえ、警察前線を張られる前だったのは幸いだ。
日本と違って、ここはヨーロッパと地続きだ。
無理に空からいくこともない。
俺はゆっくりと車のハンドルを切り、そっとその場を離れた。
「おい、どうすんだよ」
「こうなったら、車でいくしかないでしょ」
「この派手な車でか」
ガラスが砕け散ったこの車では、確かに目立ち過ぎる。
だが、辺りに溶け込むような車を盗むなんてことはたやすい。
心配するなよ、とジタンを一本摘まんで、深く吸い込んだ。
次元もポールモールのシンプルな香りをくゆらせて、さみいとつぶやいた。
「まったく、だからあの女が絡む仕事はいやだっていったんだよ」
「おい、別に不二子は手伝っただけで裏切ってねーだろうが」
「あの女は俺にとっちゃ疫病神と一緒だ」
「幸運の女神の間違いじゃなくて?」
「お前の耳の穴は脳みそに届いてんのかよ。ちくしょう、せっかく酒で身体も温まってたのによ、寒くて仕方ねえ」
寒いと騒ぐ次元の為に、適当なホテルを見つけてそこに泊まることにした。
一般人が使う可も不可もない宿には生気のない目をしたおっさんがフロントに座っていて、無言でキーを渡した。
「宿代はいくらだ?」
「あんたら外国人だな。割増で3000ルーブルだ」
「随分ぼったくるじゃねえか、別にいいけど、一つ教えてくれねえか」
「国家反逆罪に繋がることは話さん」
「そんなたいそうなもんじゃねえよ。女にプレゼントしたいんだ、宝石店はここらにないのか?」
「…クレムリンの近くに店がある。だがもう閉まった」
「そう、じゃあ明日にでもいくさ、ありがとな」
ホテルのキーを手のひらでもてあそびながら部屋に行こうとした時、次元が俺に声をかけた。
「銭型も来てる。こんなところでのんびりしていいのかよ」
「ま、なんとかなるでしょ」
「捕まったら、一生恨むぞ」
「その時は白馬で刑務所に駆けつけてやるさ」
減らねえ口だ、と次元は舌打ちしてが、大人しく部屋へついてきた。
夜間に移動するのは、銭型に追っかけてくれと言っているようのものだ。
盗みの後ならそれも一つの遊びとして楽しめるが、不二子とのひとときを邪魔されたからには、あの老兵に一発返してやらないと気が済まない。
そう言ったら、次元は呆れて一人で逃げると言い出すに決まっている。
「護衛頼むぜ、こいつの暗号を解読する」
部屋に入り次元が鍵を閉めたところで、またあの宝石を取り出した。
薄暗い部屋では、深いパープルに輝いているように見えた。

**6**

ルパンがソ連で宝石を盗み出したという知らせを聞き駆けつけたが、すでに奴の足取りは途絶えていた。
だが、ルパンが盗みを働いた夜にイエローのフィアットが窓を銃弾で粉々にされた挙句、次元とルパンの煙草の吸殻が残っていたとの知らせを聞いて、やつはまだここにいる、と確信した。
ソ連は広い国であったが、亡命者を捕獲するため国の出口という出口には、厳戒な警戒が施されている。
ルパンが使いそうな脱出経路を絞り、俺はモスクワと郊外の境目、もっとも可能性の高い陸路の橋で松葉づえをついたまま立ち続けていた。
「警部、ルパンが現れました」
「どこにだ」
「モスクワの中心街です。5分程前にクレムリンに近い、貴族たちが使う宝石商であらかた盗んで立ち去ったとの報告が」
「さっさと逃げるかと思ったが、俺を待ってるようだな」
じゃら、と手錠を手に取り、パトカーの助手席へと乗り込んだ。
ルパンに気付かれないため、俺が入国したことは一切の秘密になっていた。
俺がいると分かれば、あの間抜けな顔が見られることだろう。
「社会主義の国でご用とはな、ソ連警察にだけは先を越されるな」
運転席の日本人部下が引き締まった返事をした後、パトカーがクレムリンを目指して急加速した。

**7**

「ちょっと!もう30秒経ったわよ。銭型が来る前に早く逃げなきゃ」
「ならお前も手伝えよ!」
せっせと宝石を袋に詰め込んでいる時に飛んできた声に、思わず怒鳴り返す。
こっそり忍び込んだにもかかわらず、思わぬ警報機に急き立てられている最中だった。
ルパンは呑気にケンカしないのとか言いながら、先にベルベットの大きな袋に入れた宝石を担いで不二子が運転する車へ乗り込んだ。
一般車を改造して作った車は防弾使用になっており、これならあの老兵も適わないはずだ。
俺もルパンを押しつぶすように後部座席へ乗り込み、出せと叫んだ。
「その宝石、分け前はあたしが9!あんたたちが1よ!」
そう叫びながら女がアクセルを踏み込み、後輪を滑らせながら発進した。
車通りの少ない国道に入ったところで、ようやく安心して一息つくことができた。
「はーこれなら時価数億はあるな。これで機嫌直してくれる?不二子ちゃん」
「まったく、アタシに偽物なんか押し付けて」
「だって、そうじゃなかったらあの爺さんに命を狙われることになっただろ」
いけしゃあしゃあと嘘を吐き捨てるこの男に、俺は怒ることも忘れてため息をついた。
昨晩、暗号を解読したとルパンは言ったが、それを告げる素振りすら見せず不二子に連絡を取った。
そしてこの宝石強盗をもちかけ、不二子もそれにのった。
そこまではいいのだが、問題はこれからどうやって逃げるかだ。
銭型はもうこの国に乗り込んできているが、俺にはどこから追ってくるかなど想像もつかない。
谷を超えようと陸橋にさしかかった。
この橋を渡れば、時期に隣国に到着する。
「そういやあ、エゴールの爺さんは現れなかったな」
ルパンが思い出したように言い、後ろを振り返る。車ははるか遠くに1台、一般人の車が見えるだけだった。
「老体には連日のことでこたえたんだろうよ」
「そうだといいけどな」
俺はもう、そんな奴のことなどどうでもよかった。
女が不穏な動きをしないか見張ることに注意して、運転席を睨み続ける。
検問はあったが、俺達は報道陣という偽の身分証で通過する予定だった。
ルパンの逃走経路には信頼を置きたかったが、この女がいつ裏切るか、俺はそれだけで不安で気が気でなかった。
「伏せて!」
突然、女がハンドルを切った。
急ブレーキのせいで車が横滑りに回転し、遠心力に打ち勝てず俺はルパンとともに窓へ押し付けられた。
その直後、鼓膜が破裂しそうなほどの轟音が響き渡った。
「なにごとだ!」
「エゴールよ、橋の上からRPGでこっちを狙ってるのが見えたの」
車から全員が飛び出し、二手に分かれ別の物陰に身をひそめる。
後続車は幸いにもなかったが、何台もの車が橋の手前で立ち往生しているのが見えた。
「ほんとうに元気でしつこいジジイだぜ」
俺はマグナムの弾を確認し、エゴールがいそうな場所を伺った。
「不二子、やつはどこにいた!」
「橋のてっぺんよ、今は隠れてるに違いないわ」
女の手にも大層な銃が握られていた。
ルパンはこんな時でも女の肩に手を回し、守るかのようにしているのが癪に障った。
そんなに大事なら、置いてくりゃいいと毒づきたくなるのを抑えて、奴を仕留めるために呼吸を整える。
「この距離で、マグナムでしかもRPGに勝てるわけないわ、次元」
「うるせえ。RPGに吹き飛ばされて肉片になりてえのか」
「まあまあ、二人とも落ち着けって」
ルパンがようやく女の口を塞いだおかげで、静かになった。
だが、こんな時にキスだなんていうのは、もう見ないことにした。
下限の月の夜では、灯りが少ない。その反面俺達は陸橋の街頭に照らされている。
圧倒的に不利だった。
どう手を打つか考えていると、ルパンとの無線機に雑音が入ったのに気付いた。
「なんか言ったか、ルパン」
「唇がふさがってたからなんにも」
やけに嬉しそうな声と、女がビンタをする音が一緒に聞こえた。
呆れてものも言えない最中、また砂嵐が混じる。
『聞こえるか、ルパン三世』
しわがれた、だが厚みのある老いた声が無線から流れてくる。
『その宝石はお前宛てのものじゃない。いいか、どこにでもいい。今すぐに捨てるんだ』
ルパンを伺うと、無線機を探り、やつの周波と繋ぐのが見えた。
「捨てる?なんのために」
ルパンが言葉を返したのに驚いたのか、返答を考えているのか間があった。
だが、深いため息の後に、また声が聞こえてくる。
『この世の誰の物ともならん代物だからだ。
屑宝石を集めて、価値を増やすためだけに生み出されたものだ。
そんな資本主義の象徴など捨てるのが当然だろう』
「今までのはずっと警告だったっていうのかよ。ジジイ、楽しんでやがるな」
次元が口を挟み、無線先にも聞こえるような大声を出す。
『次元大介、青二才が私に刃向うな。いいか、そいつを捨てろ。さもなくば、お前らを全員蒸発させるぞ』
「あらら、そいつは困るぜ」
『だったら今すぐに撃ち壊せ。貴様らの様子はここからも確認できる』
「そういって、お前の見えるところに出た瞬間、撃ち殺す気か?」
『安心しろ、大いなる指導者レーニン閣下に誓って殺さないと約束しよう』

ルパンが俺に目を向け、確認したら撃てと合図する。
そして物陰からゆっくりと姿を見せ、深いグリーンのジャケットをオレンジ色の街頭が照らす。
すると、塔のてっぺんに白い髪が浮き上がっているのがわかった。
「ひとつだけ聞く、どうして本物を持っているのが俺だと分かった?」
『どれだけ多くのまがいものに紛れようと、私には分かる』
「ああそう、じゃあ、お望み通り壊してやるからよぉく見とけよ」
ルパンがそう言って懐に手を忍ばせた瞬間、俺は白い影に照準を合わせた。
『次元大介。俺を撃ってもかまわんが、相棒の心臓に薔薇を咲かせたくなければやめることだな』
「あら素敵な言い回し」
「ぶっそうな割にしゃれたこと言うわね」
「チャンスがあれば撃つ、それだけだ」
俺は白い影が、破壊の瞬間を見定めようとする時を待っていた。
80歳なら、十分生きたはずだ。恨むなよ、と照準を睨み続ける。
「カウントダウンで決めるぜ、見逃すな」
「3、2、1!」
グリーンジャケットは、オレンジの光のせいでブルーに見えていた。
月夜とライトに照らされ、白と7色に光り輝く宝石が投げられた時、頭が浮き上るであろう瞬間に合わせて引き金を引いた。
だが、5秒後に橋に叩きつけられたのは白髪のかつらを被せられたマネキンの頭だけだった。
あっと息をのもうとした瞬間、俺の帽子が吹き飛ぶ。
ぼたりと血が顔にかかったが、何かがおかしい。
俺の頭から落ちた帽子のつばには銃痕の風穴があったが、その血は俺のものではなかった。
上を見ると、俺の頭上の鉄筋に人影が見えた。
ぼたぼたと落ちてくる血に紛れて、モシンナガンが落下してコンクリートの上に叩きつけられてひしゃげた。
目の前を見ると、不二子が銀色の銃を俺の頭上に向けて構えていた。
『女、3人の中で一番かしこいようだな』
痛みをこらえるような声が無線から届く。
「こんなおばかさんたちと一緒にしないで、ヂェードゥシカ」
得意げにそう言ってみせた不二子を見て、俺はそこでようやくダミーを見抜いていたのが不二子だけだったことに気付いた。
「欺くことで女に勝てると思って?」
いつも欺いているからこそ、気付けたとでも言うのだろうか。
ルパンが不二子の頬にさすが俺のミネルヴァとかなんとか言いながら、銃を女の手から取った。
「そんなにこいつが憎いのか」
言いながら、ルパンがオレンジの光の下で紫に輝く宝石を掲げてみせる。
『…暗号の意味がわかったか?』
「ああ、お前には許せないものだろうよ」
『そうだ…それは、愚かな資本主義者の遺言に過ぎない。社会主義など、もっと愚かだがな』
しわがれた声が、一瞬だけ笑った。
そして、数秒後に橋の下へと落ちていくのが見えた。
急に静まり返った国道では、大きな爆発を目の当たりにし立ち往生していた車と、パトカーのざわめきが急に聞こえ始めた。
「ルパ~~~ン!やはりこっちの道だったな!お前の考えることなどお見通しだ!」
拡声器を持った、トレンチコートの男が松葉づえを窓から降り回しながらパトカーを飛ばしてくるのが見える。
「やべ、とっつぁんだ」
「車は無事よ、道もなんとか抜けられるわ」
不二子が車を確かめ、ぼんやりしていた俺の腕をルパンが掴んだ。
「大丈夫、弾はあたってねえよ。幸運の女神に感謝しな」
弾があたってないことくらい分かってると言い返そうとしたが、その暇もなく助手席に押し込められた。
後部座席でルパンは銭型が乗り込んだパトカーにワルサーを向け、何発か打ち込む。
俺は不二子に助けられたことを、どうにも理解できていなかった。
したくないのではなく、信じられなかった。
欲深いことしか特徴にない女だと思っていたばかりに、理解しがたかった。
「ちょっと、命の恩人に礼もないわけ」
そんな俺に気付いたように、不二子が俺に声をかけた。
「わりィ…助けられた」
「…男って、なんで理由もなく女は自分よりばかだって信じたがるのかしらね」
「別にそんなこと言ってねえだろ」
「そう顔に書いてあるわよ『こんな女に助けられたのか』って」
ずばずばと言い当てられ、心が読まれているのかと肩をすくめる。
「俺は不二子ちゃんほど頭のいい女はいねえって最初から知ってたぜ」
フォローをいれるように、ルパンが運転席と助手席の背もたれの間から顔を出した。
「次元ちゃん、もしかして不二子に惚れた?お前も強い女が好きだろ」
「ばかいえ…とはいえ、認めるぜ。お前の女はたしかにいい女だよ」
素直に思ったことを口にすると、不二子もルパンも驚いた顔で俺を見た。
「なんだよ、なんかおかしなこと言ったか?」
「ふふ、認めるのが遅すぎて驚いたのよ」
不二子がそう言って、アクセルを更に踏み込んだ。
ルパンが後部座席に吹っ飛び、朝焼けよりも早く車が国境を越えた。

**8**

「とんだバカンスだったぜ…」
警察から逃げ切った後にたどりついたチューリッヒは涼しく、かつ寒すぎず、最高の避暑地と言えた。
俺はソ連であったことを脳裏に思い浮かべながら、嫌味も込めて向かいのソファーで腕時計をバラしている男へ声を投げつけた。
ジャケットを脱いでホルダーを襷代わりにしている男は、ロレックスの残骸をああでもないとこうでもないとやっている。
「そう言うなって、確かに銀行は襲い損ねたが、これから仕切りなおしていこうって時じゃねーか」
「また仕事かよ。休むんじゃなかったのか」
「いやー、もう金がなくってさあ。ここのホテルは前払いであと10日はゆっくりしてられっけどよ、10日後は宿無しになっちまうのさ」
「どうして1か月前に日本銀行からかっぱらった1億とソ連の宝石がもうねえんだよ」
呆れてものも言えねえと、帽子を日よけに顔へ乗せた。
「アジトを買ったのと、不二子へのプレゼントと、あとなんだったかなあ。忘れちまった」
茶目っ気をふくめて言われても、サル顔の男では苛立ちが増すばかりだ。
「バイトでもするか…」
「用心棒の?」
「それで金をためて、お前とおさらばしてやる。あの女ともな」
「過ぎた冗談言うと、こいつでその唇つないじまうぜ」
帽子を避けると、ルパンが嫌な笑顔でコテの先を向けていた。
「勘違いするな。お前とはパートナーだが、俺はお前の銃じゃねえ」
「つれないねえ」
カチャカチャと時計をいじくりまわしながら、ルパンはシャツの胸ポケットから例の宝石を取り出した。
「次元ちゃん、恋人貸して」
そう言って手を銃の形にして俺を指さす。
「乱暴にするなよ」
何する気だ、と思いつつも銃を手渡す。
するとおもむろに、宝石を銃の台尻で叩き壊した。
「おい、不二子に殺されるぞ」
「もう興味ないってさ。それに。とっくに暗号の謎も解けてるし」
飄々と言ってのけて、そこからめぼしい宝石を摘まんで、時計の中へ埋め込み始めた。
「そいつは知らなかったぜ。なんて書いてあったんだ?」
「んふ、聞きたい?」
「気になるからな」
目を閉じたまま、暗闇で男のアルトの声がするのを待っていると、また石を砕く音がした。
『資本主義の国でなら幸せになれる』
アルトの面影などない、今まで聞いたことのないような低く沈んだ男の声だった。
「…どういう意味だ?」
「よくあるストーリーさ。エゴールは、若いころ暗殺専門のスパイとして活動していたらしい。そこで、とある女と夫婦になるよう命じられた。政府からの命令とはいえ、エゴールは妻として女を愛していたらしい。だが、その女はソ連が資本主義の国になること望んでいたんだ」
ふわりと、アルプス山脈から吹いてきたのであろう冷たい風が部屋に吹き込んだ。
帽子を風に飛ばされないよう抑えながら、話に耳を傾ける。
「エゴールは悩んだ末、女を警察へ差し出した。その時に女は叫んだそうだ。人の心までは分配できるものじゃない、資本主義なら恋愛だって自由にできるってな」
「ふん、映画にでもなりそうだな…」
「女は国家反逆罪で、すぐに処刑された。エゴールは良心の呵責と国への忠誠心と戦いながら、妻の遺品整理をする。そして、クローゼットの中にエンジェルトリバを見つけた。
彼女の父は、もとは宝石の加工職人だったが、早くに病死してな。だが彼女に、いつかこの国からでることができたらこれを売って、資本主義の世界で生きて行ってくれと宝石を授けた」
よくすらすらと作業をしながら話ができるものだ、と穏やかな日ざしで温まってきた部屋に眠気を覚えながら思う。
悲しいストーリーなんざ聞き飽きていたが、この穏やかな太陽の下には似合わない話題で、聞いたことを受け流すために深く息を吐く。
「男はそんなことも知らず、その宝石を手に入れた。そして、その石の秘密のメッセージになんの拍子に気づいたんだな。その文字を見て何を思ったかは、俺には分からねえが」
よし、できたぜ。と男が俺の胸に重いロレックスを投げた。
帽子をどかしてその時計をみると、七色の宝石が散りばめられた時計が、規則正しく秒針を振っていた。
「でも、それをきっかけにエゴールは自分の信じていた主義が正義でないことに気付いた。だからわざわざ、美術館に寄贈して飾らせたのさ。ま、メッセージに気付いたやつは一人もいなかったが」
「そのことに苛立って、誰も気づかないメッセージを消そうとしたのか」
「そうかもしれねえな…いやあ、俺達は幸せもんだぜ。資本主義のいいとこ取りをして、自由に生きられてる」
「ふん、最高で最悪のお手本ってとこだな」
時計を腕に付けてみると、ぴったりとはまった。
「似合うじゃない。それ、お前にやるぜ」
「こんな派手なロレックス、俺の腕には似合わねえ。重いし射撃の邪魔だ」
遠慮すると時計を投げ返すと。お前は重たいものが似合う男だからぴったりだと思うぜ、と余計なことを言った。
「俺はエゴールじゃねえ」
「そうだけどさ、今みたいな、ものさびしそうな姿が次元ちゃんはセクシーだと思ってよ」
「気持ち悪いな、そういうのは不二子に言ってやれ」
俺がそういうと、ルパンは思い出したように声を上げた。
「そうだ次元。不二子がよぉ、こないだの礼はアメリカン・ゴールデントパーズでいいってよ」
はあ?と思わず大声が出る。
アメリカン・ゴールデントパーズというのは、たしか漬物石みたいな巨大なトパーズのことだ。
「あんなバカでかい宝石を盗めってのかよ…」
「命よりか安いもんでしょ」
ルパンが笑いながら、テーブルの上を片付け始める。
「……借りは返す。必ずな」
灰皿に押し付けたシケモクを摘まんで、たった一息分だけ吸う。
遠くで、昼の鐘を鳴らす音が聞こえた。
どこか、日本の夏がなつかしく思えた。