**2**
結局、俺はどこにも寄らず湊のところへ戻ってきた。
既に深夜だったが、飲まずに寝ることはできなかった。
妥協して近くのコンビニで買ってきた安物のウィスキーを、瓶のまま煽る。
消毒液のような味が、喉から下り腹の苛立ちを殺していく。
ワガママを言って、この武家屋敷唯一の洋室のソファーに寝転がっていた。
湊の書斎らしいが、ここ最近使われた様子はなかった。
ここの部屋ならば、土足でいていいと許可を得た。
日本の家は土足で上がれないから嫌だったが、もう靴が履けなくてイラつく心配もない。
たった一部屋でも、無防備にならなくていい空間があるのは嬉しかった。
小瓶を軽く飲み干し、多少気が済んだ俺は、2本目に手を付けながら、少し目を伏せる。
アイツさえいなければ、高い酒が飲めたのに。
緑ジャケットの男が脳裏に浮かぶ。
あいつは、一体なんだというのか。何度も俺に付きまとって何がしたいのか。
腹の傷を少し手当したくらいであんなにしつこい訳がない。
しかも何年も経ってから接触してきたということは、何ならかの目的がある筈だ。
クソ、と何万年もかけて地中で熟成された琥珀のような液体を飲み込む。
不味さに舌打ちして、もっと時間をかけたものが飲みたかったのに、と邪魔してきた緑の男を恨む。
あの時も、俺の数少ない安らぎを邪魔してくれた。
安らぎよりも素晴らしいものなどないのに。
2本目も空にして、ソファーの背もたれに鼻を寄せて目を閉じた。
何時間経っただろうか、陽の射さない書斎の窓から、絶え間ない砂嵐が聞こえていた。
うっすらと目を開けて、自分を見失ったひとのようにソファーの背もたれを見ていた。
皮のきめ細かい模様を、どこまでも見つめていく。
ふと人気のない洋室の外に、この家の者らしい気配が来た。
「起きろ、お前を呼んでる」
朝飯か、と軽口をたたいて、シャツを新しいものに変えて、ジャケットを羽織る。
帽子を被り、無駄に荘厳な鉄製の扉を開ける。靴は脱がなければいけなかった。
洋室を出た一歩先の木製の廊下は長く、晴れていれば平穏な朝がその表面を目映く照らしている。
生憎、今日は酷い雨だった。
主の部屋はその光の当たらない場所にあった。
昨日も不躾に開けた障子を、また同じようにガラリと開ける。
白い男は淹れたてらしい緑茶を飲みながら、俺のことも見ずに口を開いた。
「よく眠れたか」
「…布団よりはな」
無駄なお喋りはごめんだ、と立ったまま湊を見下ろす。
「座れ…と言っても座らないか、まあ聞け。新しい仕事だ」
男がしわがれた手を伸ばし、茶を飲む。
「少し外に出る。ついてきてくれ」
湊が立ち上がる。奴は古い人間にも関わらず、背の高い男だった。
ただ痩せ細った植物のような身体のせいで、その様子に重みはない。
ただヤクザの持つ、仄かな殺気は匂っている。
その言葉に従い、後ろをついていった。
次の日も似たような光景があり、その次の日も同じ光景を見ることになった。
俺と似たような黒スーツの男達が、ぞろぞろと湊の後を追う。
俺はその中に紛れながら、湊を狙う輩が居ればその額に穴を開けた。
日本という国柄ではあったが、ヤツは非常に上手くそれをもみ消した。
俺は日本のヤクザには詳しくないが、様子を見ていると湊組は古く、力もそれなりにあるらしい。
海猫とはもともと同じ一家とも聞いた。
探っているわけではないが、勝手に耳にしてしまう情報は、なるべく忘れるようにしていた。
**2**
しばらく、そんな日々が続いた。
海よりも青く、軍艦のような白い雲と、軍艦のもたらす雨と雷の砲撃の時期は過ぎた。
湊は優勢に動いているようだった。
湊は、共倒れをするぐらいの勢いで戦うと言っていた。
何の為に、ということを尋ねたことはなかった。
ただ組の存続の為に、という訳ではないことは分かった。
詳しい理由は口の堅い子弟達がつい漏らしたこともない。
それでも、常にいれば否が応でも知り得てしまうこともある。
この組の潰しあいは、一人の女を巡っている。
下らないとは言わない。俺は任されたことをするまでだった。
懐きもしない俺を湊は気に入っているらしく、よくあの和室に呼んだ。
俺はただの一度も座らず、すすめられる酒も一滴も飲まなかった。
今日も、秋をも追い出す暴風の日に、俺はやつの部屋に居た。
「次元、もう3か月経った。いい加減座るぐらいしてもいいんじゃないか?」
「………遠慮する」
蝉は土に還り、外からは荒ぶる風の音が聞こえる。
こんな日に外から狙ってくるような輩はいないと分かっている。
命の危険に晒されるから、という理由ではない。
「お前は」
湊が二つあるうちの猪口を一つ口元に運ぶ。
「誰かを待っているのか?」
「…いいや、俺は一匹狼で売ってるんでな」
渋谷のハチ公のように、永遠と来ない主を持っている訳でもない。
「もう寝る」
満杯の猪口を見捨てて、書斎へ帰った。
廊下は障子の光が透けて明るかったが、夜空には雲がかかっていた。
この暴風さえ、吹き飛ばせない程の重い雲が。
真っ暗な廊下を帰り、ソファーの上で伸びをした。
そういえば、つきまとってきたかと思いきや、あの男はあの日以来全く現れなくなった。
やっぱり奴の気まぐれだったのだろうと安心して、眼を瞑る。
ごく稀に、俺に興味を持って近寄ってくる人間はいる。
女ならしばらく付き合ったりもする。
だがやはり、長くはともに居ない。居られない。
男は相手にしない。
ふと脳裏にあの猿顔の男の顔が浮かび上がった。
俺に赤いルビーを投げたり、カードを送ったり、薔薇を撒いたり、やっぱりキザな野郎だった。
あの男も俺と同じで、日の当たらない裏の世界の住人だ。
だが、生き方も見ている世界も違う。
永遠に俺とは相いれない。
あの顔を頭から掻き消して、考えることを止める。
明日の日のためでなく、今日が終わったから眠った。
**2**
湊と海猫の争いは熾烈だった。
この日本で、両者は日々殺し合っていた。
特攻隊か何かのように、互いが潰れるまでやりあうのが双方のやり方らしい。
俺もそれに加勢し、多くを殺した。
今日も、冬の肌を痛める空気のなか佇んでいた。
光に満ちた都会の、地上のミルキーウェイを見下ろす。
日本の入り組んだ道路は、海外のように車で移動する対象を狙撃するのには向いていない。
それでも俺はチャンスを待ち、対象が車で通過する道が一番奥まで見通せるビルの屋上にいた。
手はとっくにかじかんでいた。
ライフルのどこまでも冷えていく鉄を握り、指先から皮膚がその鉄に同化していく。
だが、引き金を引く人差し指の関節だけは、固まらぬよう動かしていた。
うつ伏せで、ライフルと一体となってスコープを覗いた。
行くも帰るも、分れては。
そんな車の往来を、ひたすら見つめる。
酷く寒かった。
黒いコートを敷いていたが、思うより冷えるようだ。
少しでも暖かさが欲しくて、風を知る為にもと煙草を取り出し、火を付けた。
早く終えて、生暖かい地下へ戻りたい。
それだけを願いつつ、スコープの彼方を見つめる。
似たような車は多いが、プロの勘がターゲットを取り違えることはない。
『…次元、聞こえるか』
「聞こえてるぜ」
無線から湊の声が聞こえてくる。
『あと数分でそちらを通過するはずだ。外すなよ』
「わかった」
発音が風に乗り、白い息が手に当たる。
もうしばらくで、戻れる。そう思えば少しは気持ちが楽になった。
湊の言う通り、車の遅く見えて早い車の往来を見ていると、2分ほどで、向こうから真っ黒な車が、長い一本道を通過しようと表れた。
観測手無しの狙撃はなかなか難しい。だが、俺には仲間などいない。
半分ほど吸った煙草を立て、息を潜める。
スコープを覗く俺の右目の全てが、黒いベンツだけを見ている。
比較的若い男が、隣に黒髪ショートの美女をはべらせていた。
女は高そうな白っぽい蝶の着物を着ている。
「クリーニング代は香典から出してもらえ」
ポイントに達した時、自動的に俺の指が引き金を寄せた。
車が50mばかり走った後、女が真っ赤な着物で出てきた。
運転手も青ざめた顔で、どこかに電話をかけている。
その様子を見届けて、冷たいコンクリートから猫のように起き上がった。
「買い替えだったな」
『次元、終わったか』
「終わった。今から戻る」
虚しくも、悲しくもない。
どこまでも仕事だった。
罪だとは思う。だがそれでも俺自身の為に。
それに疑問を抱いたことはなかった。
罪だとは思うが、悪だとは思わない。
草食動物が天国に行けて、肉食動物は地獄に落ちる道理はない。
ふと空を見た。
ビルの屋上は、バベルの塔のようには天へと近づけない。
微かに見える星と、青い月が丸く俺を見つめている。
寒いのは嫌いだった。
だが今日は、骨の髄が絶対零度になるような寒さ、この冷たさに、抱かれていることに安心感を覚える。
コートを拾おうとした時、俺の身体から萎びた赤い何かが落ちた。
それは、いつか奴の振り撒いた薔薇の花弁だった。
乾き、ひしゃげ、赤黒く変色したそれは、俺のささやかな涙だったかもしれない。
[newpage]
***3***
「オシゴトは終わり?」
呆然と佇んでいる次元に声をかけると、機敏に俺の方を振り返った。
俺が貯水槽に腰かけているのを見つけて、口元だけで嫌な顔をする。
「何でお前が」
「またここにいるって?」
言葉を奪われて、口を開いたまま息を詰まらせる。
白い息を見て、骨が蒸気しているような色だと思う。
「夏からずーっと、俺はお前を見てたぜ」
「なんだと?」
言うと同時に、下へ降り立つ。
羽織っていた赤いコートがはためき、冷たい空気が侵入してくる。
ゆっくり狙撃手に近づき、5mほどのところに来た。
「狙撃がメインかと思ったら、お前は早撃ちの方が断然得意らしいな」
「本業はそっちだ」
「通称早撃ち0.3秒の男か。ぜひ間近で見てみたいぜ」
スナイパーが撃ち抜いた後のターゲットを、双眼鏡で覗いてみた。
駆けつけた救急車に乗せられているところだったが、その眉間には見事な虚空があった。
即死は、暗殺のせめてものマナーだ。
だがこの仕事を終えた次元は、独り言をつぶやいても楽しそうでも満足げでもない。
コートも羽織らず、しばらく空を見ていた。
迷子のようでもあり、溺れるひとにも見えた。
俺の向かいから風が吹き、カサカサと何かが飛んできた。
それを掴むと、歪んで乾ききったこげ茶色の花びらだった。
それをグシャリと握りつぶして、夜風にばら撒く。
「なぁ、次元。こんなつまらない仕事、お前には向いてないぜ」
コンクリートに鎮座するスナイパーライフルを見やり、語りかける。
「………」
次元は無言で、俺をまっすぐ見ていた。
「こんなところでくすぶってるような男じゃないだろ、お前は」
「…買い被るな、俺はこのままで十分だ」
「いいや、お前はもっと自分のために、ワガママに生きるべきだ」
最後のワガママに、というワードに、次元は反応を示した。
煙草も咥えていない無防備な唇が、寒さに震えながら声を出す。
「お前は」
寒さでない震えなど、そこにはない。
「お前は何のために生きてる」
自殺者のような、切羽詰まった問いではない。
まるで子供が親にものを尋ねるイントネーションだった。
幼子に向けて、広大な科学文明の海を、人工の光に満ちた地上に両手を広げてみせる。
「不思議なことを聞くな、次元ちゃん」
「そんなの、世界が俺の為だけにあるからに決まってるじゃねぇか」
俺は誰かの為になど生きない。
世界は俺を楽しませる為にあるのであって、人類が存続するためじゃ無い。
俺が、盗み、そして死ぬまでの暇つぶしをいかに楽しいゲームに出来るかが、この世界の価値だ。
「じゃあ俺もお前の為にあるとでも?」
失笑をしながら、次元はジャケットからポールモールを出した。
「そうさ、お前は俺の為にある」
聞こえないかのように、手で風を防ぎながら火を灯す。
まだ抜かない、と思いつつ、3mのところまで近寄る。
2mで、次元は俺にマグナムを向けた。
この距離は、流石に当たる。
「下らない口説き文句なら、また今度にしてくれねぇか。今の仕事が立て込んでるんでな」
んふ、と少し困った笑いをしてみせる。
「ガード堅いなぁ、俺様は次元ちゃんとナカヨクなりたいだけなんだけど」
「ふん…そいつは受け付けられるオファーじゃねぇ」
煙草の煙が夜風に流れていく。
帽子のツバが少し揺れ、次元の黒い瞳が見える。
風が次元の後ろから吹いた時、こいつの吸っているポールモールの匂いが流れてきた。
この男はどんな匂いがするのだろうか。
死の匂いが、生の匂いか。はたまたどちらでもないのか。
駆けだせば、撃たれずに近寄ることのできる距離にあった。
「次元、知ってるか」
じっとその恋人を握りしめる姿を観察し、調べたクセを計算する。
隙はなかった。だが、なければ作ればいい。
膝の力を一瞬抜き、懐からあるものを取り出した。
それを次元の顔に投げつける。
次元は0.1秒だけ、それに視界を奪われた。
その隙に懐に飛び込んで、投げつけたものを寒そうな首に巻きつけた。
「俺からのオファーは」
「運命って言うんだぜ」
間近に見た時は濃茶色の瞳が、撃つことさえ忘れて俺を見ていた。
赤いマフラーは思いの他、血色の悪い肌に似合っていた。
白い煙草は風に流され、下界へ転落していく。
「じゃあな、また会いに行くぜ」
ウインクを飛ばして、駆け足でビルの縁を蹴る。
冬の、針の筵のような空気から落ちる途中、火の燃えたポールモールが側にあった。
手を伸ばし、唇に咥えた。
赤い香りがしていた。
****
仕事から戻って、俺は奴の投げつけた赤いマフラーを書斎の机へ投げつけた。
捨てようと思ったが、捨てられなかった。
結局コートを忘れて寒い中帰ることになったのに、このマフラーを抱えていた左手だけが暖かいことに、腹が立つ。
奴はバカにした気はないのだろうが、変な屈辱感があって、その不快感で動悸も不安定だ。
この俺が、自意識過剰でもなんでもなく、今まで幾度となく死線を越えてきて俺が、こんなにも隙をつかれて遊ばれるなんざ、信じたくなかった。
何で奴は、どうして奴は、突然現れて俺を振り回して、突然消えるのか。
突然消えるならまだしも、奴が必ず痕跡を残していく理由も分からなかった。
ルビーも、薔薇も、マフラーも。全て赤い。
鮮やかな赤を残して、あいつは去っていく。
今晩のあいつは、コートも赤かった。
押し寄せる赤の波に、心が乱れる。
あいつは、一体俺に何がしたい。
考えても分からなかった。
あそこまで実力のある男なら、俺の銃の腕など要らない。
ポールモールを、吸うと言うよりガリガリと噛んでいた。
外では小雨の雨が降り始め、部屋はとても寒い。
不意に、誰かが戸を叩く。
どうやら湊からの呼び出しらしかった。
「戻ったか、次元」
湊の和室に、また無礼に踏み込む。
湊はいつもの通り真っ白な着物を着たまま、猪口を煽っていた。
その様子は、疲れている。
無為な殺し合いが続いているせいか。
「何故俺を呼んだ。ブリーフィングすることなんか何もないぜ」
俺もさっきのことで機嫌が悪く、返しは冷たくなる。
「少し話をしたかったんだよ、次元。お前は半年ここに居てくれているが、ただの一度もこの畳に座ったこともない」
「話すことはない、俺は戻るぜ」
どうしてこう老人というものは、語りをしたがるのか。
慣れあう気が無いのだから、放っておいて欲しい。
「次元、待て」
障子を開こうと手をかけた時、湊が鋭い口調で止めた。
「一つ、お前に聞きたい」
湊は年相応の落ち着きがあった。
でもその口調は、どこか未熟者が物を尋ねる謙遜さが混じっている。
「次元、お前は今まで何の為に生きてきた?」
男は静かに聞いた。
「…ありふれた質問だ」
聞かれて初めて、今さっきした己の質問の、愚かさを感じた。
「そうさ、それでいて難しい」
湊を見ると、眉間に皺がよっていて、猪口をじっと見つめている。
「言い方を変える、次元、お前は何故人を殺してもいいと思う」
「俺が…生きるためだ」
獅子が兎を殺す、蛇が蛙を食うように。
「正しいと思うか」
「…そういう価値観は持ってない」
障子をガラリと開ける。
凍てつく空気が流れ込んできていたが、俺はそれを閉めず書斎に帰った。
俺の為の世界があるという言葉を俺は嗤った。
だが、その質問をされて、俺は気付いた。
人はみんな自分の為に生きている。
ありふれたこと過ぎて、嗤った。
俺もその内の、凡庸な人間だった。
*****
男はソファーで膝に肘を立てて写真を眺めていた。
「なーに見てるの?」
東京の高層マンションにあるルパンのアジトで、私はその首に縋り付いた。
世界一の泥棒をうたう猿顔のルパンは、ムスッとした顔で写真を見て、私を見ない。
「熱心ねぇ、次の盗みに関わる輩なの?」
「いーや、何年か前に俺を助けてくれた、黒いお人形さんさ」
「人形?やだ、全然かわいくないじゃない」
写真には真っ黒なスーツを来た男、帽子を被っていて顔立ちはよく分からないけれど、私の好みじゃないことは確か。
「ほら、いつだったか腹にナイフ貰っちゃって、その時も不二子ちゃんが助けに来てくれたでしょ」
ちゅ、とルパンが頬に馴れ馴れしいキスをしてくる。
ルパンとの思い出なんて、1つ1つ覚えてなんていられない。
「で、その男がどうしたの?今更恩返しでもする気?」
「いんやー、でも、ちょーっと会って話したいことがあるのよね」
「あなたが仕事でもないのに、男に興味を持つなんて珍しいわね」
ルパンが手にしていた写真を何枚か見る。
煙草を吸っていたり、いなかったり、何の面白みもないものばっかり。
しかも半年前の夏からこの冬まで、同じようなものが何十枚も。
「もしかして目覚めちゃったのかしら?」
「不二子ちゃーん、冗談きついぜ」
苦笑いで、ルパンは私から写真を奪った。
ルパンが根っからの女好きなことは、私が誰よりも知ってる。
何の思惑を持っているのかは分からなかったけれど、お金の匂いがしないことは確かね。
「俺は、不二子ちゃんだけを愛してるぜ」
「ちょっと、もう」
ソファーに引っ張り込まれて、自信に満ちた、テクニシャンなキスを受ける。
ルパンって、私以外に興味を持つときほど、私を愛そうとする癖がある。
めんどうくさいわ、とその胸を突き飛ばした。
***3***
不二子が珍しくキスを許してくれたのを期待して、ベッドに連れて行こうとしたら思い切り拒否されてしまった。
俺がアプローチすると逃げる癖に、俺が他に興味を持つと擦り寄ってくる。
女はそういうものだが、そこがいい。
不二子が見た写真を、また見る。
真っ黒な男。銀座で見つけた黒い時計うさぎ。
真夏の東京から、ずっとその姿を追っていた。
年齢不詳、国籍は多分日本、戸籍不明、何年か前に殺し屋としてデビューして、今はもっぱら用心棒。
正直、実力はあるがパッとしない男だった。
だが、パッとしない割に、義理堅い性格故か、評判は割と良かった。
殺し屋でいるには情が厚過ぎるし、組織の中で生きていける人間でもない。
根無し草みたいに、ふらふらと暗黒街を行き来している。
俺だって普通ならこんな男には興味さえ持たない。
女ならまだしも、孤高のガンマンなんてムサ苦しくて仕方ない。
でも俺は、あの夏にこいつを追いかけた。
他の奴らとは決定的に違う空気を感じた。
この男がいれば、もっとデカいことができると俺の本能が叫んだ。
半年もの間、その感覚が確かなものか見定める為に、次元を追った。
その中で、一つ不思議なことに気付いた。
世には幸運の女神というものが存在する。
理屈ではない、その人間だけがもつ引きの良さってやつだ。
奴には、それに似て非なる神が憑いているように見えた。
人の死を引き寄せる。というより、引き出す。
奴が絡んだファミリーやらは、次元を雇うことで戦いに勝利し、そして直後に自滅の道を歩んでいた。
暗黒街でもその噂は有名で、良くないあだ名がついていた。
正直、こいつを仲間にして、何かいいことがあるかと聞かれれば、それは分からない。
無駄なことはしない性分だが、賭けたくなった。
この男の神と、俺の神、どちらが勝るか。
真冬の東京、映画のスクリーンのように大きな窓ガラスの外を見下ろす。
「Je suis une poupée de cire,Une poupée de son…」
この光り輝く夜景の、一番暗いところを見つめながら、歌った。
[newpage]
**2**
ある日、湊が撃たれた。
俺は身内の話があるから来なくていいと言われ、書斎で上物のスコッチを煽っていたころだった。
黒服に抱えられて、湊は白い着物を真っ赤に染めて帰ってきた。
どこを怪我のしたのかさえ、分からないほど。
だがどうやら仲間の血が8割、ということらしかった。
「湊」
お抱えの医者がかけつけ、この屋敷の手当てに適した場所へ行こうとする湊を呼んだ。
湊は俺を見て、口を開いた。
「次元、3時間後、話すことがある」
強い目だ。俺は頷き、また書斎へ戻った。
きっかり3時間後、俺はあの和室へ呼ばれた。
障子は、開いていた。
清潔な白い着物を着た湊は、キセルを吸って俺を待っていた。
口のつけていない猪口が、机の上に一つあった。
「次元、すまないな、話は直ぐ終わる」
「…ああ」
立ったまま、男を見た。
「明日が、命日だ」
ふう、と煙が吐かれる。
「明日、奴らのアジトに踏み込む。お前の仕事もそれで終わりだ」
「わかった。俺は何をすればいい」
「お前がするべきこと。それだけだ」
廃れきった視線で、キセルを吸う。
最初穏やかだった男も、今や死に瀕して牙を剥く男だ。
もう湊は死ぬ覚悟なのだろう。
長くて1年という話だったが、半年と少し。
思ったよりも早く、この後はどこのバイトにしようかなどと考えていた。
「夜明け前に立つ」
「次元、最後の頼みだ」
「飲め」
白い男が、俺に白い猪口を差し出した。
たった一口分のそれを、黙って飲み干す。
コクのある、と言えば聞こえはいい。
だが、ただ米が腐った液体は、不味い。
猪口を湊へ返し、俺は彼方の廊下にある書斎へ帰った。
それから俺は眠らず、酒は口直し程度にして、ソファーに座っていた。
1時間ほどして、違和感に気付いた。
手先が痺れている。やばい、と立とうとした時には既に遅かった。
崩れ落ち、赤い絨毯へ沈む。
助けの合図を送ろうと腰のマグナムに手を伸ばそうとすることもままならず、意識が段々黒くなってくる。
分厚い扉の彼方から、大きな物音が聞こえてきた。
だがそのもの音の正体を知ることもなく、俺は力尽きた。
**2**
ずっと、どこか彼方で音がしていた。
聞き慣れた音だと感じるのに、酷くくぐもっているせいで何が何だか分からない。
気が付けば目の前に赤い海が広がっていた。
意識が戻った瞬間も分からないほど、俺はぼんやりしていた。
辺りは静かだった。
俺は湊の居た場所へ、廊下を這うようにしながら、向かわなければと思い始めた。
力の入らない腕を扉に這わせ、ノブを倒れ込むように回す。
磨かれた廊下は滑りやすく、匍匐には苦労した。
結末は分かっていた。廊下に面した障子には、黒い飛沫が広がっていた。
外は快晴ではなかったが、雲の切れ間から光が覗いているようで、ほのかに明るい。
湊のテリトリーは、見る影もなかった。
障子は大破し、畳は赤い絨毯のようだった。
何人もの黒スーツの男たちが、物も言わず転がっていた。
死体の上をウジ虫の如く這い、湊を探した。
湊は、守られるようにして死体の中に埋もれていた。
「湊」
語りかけると、湊はほんのわずかに目を開いた。
「………次元か」
血が乾いた真っ黒な着物を着て、腹に手を当てている。
そこからは、生暖かい血が流れていた。
「お前、俺に薬を盛ったな。何故だ」
「…言わなくても分かるだろう」
酷く疲れた様子で、湊は呟く。
「俺は…」
「湊、もう喋るな」
「俺はずっと疑問だった」
眩さをこらえるように、薄暗い天井を眺めている。
「罪や悪の甘い汁でしか生きていけない俺が」
「自分のためにしか生きられない俺が」
湊は語りながら、俺の後ろ彼方を見た。
首だけ振り返れば、日本庭園の先に、遙か暁の空があった。
赤とオレンジの濃淡が、静寂の青までのカウントダウンを始める。
「俺にヤクザは向いてなかった。妻もそう言っていた。だが、ここしか生きる場所はなかった」
「湊」
「次元、お前は」
湊の黒い手が俺のシャツを掴む。
俺はただ、それを見ていた。
「俺のようにはなるな」
鳶色の瞳が、俺を強く睨んだ。
そして、そのまま男は日の出をみないまま夜を迎えた。
**2**
湊組は、結局敵の手に世って葬られることになった。
日本人というものは死人にはどこまでも律儀で、自分で殺して起きながら丁寧な式を挙げていた。
俺は敵対者だったが、契約が切れたといえば奴らは渋ったが、式に入れた。
虐殺の日に、あの屋敷に居たものとも思われてなかった。
それにしても、この黒の普段着は、いつどこで葬儀があっても俺を馴染ませてくれる。
俺の噂を知っている連中は、俺を見て親指を隠さんばかりに避けたが、海猫の頭は何人もの部下を殺した俺を見て、名刺を差し出した。
ヤクザの名刺なんざ使わねぇ、とその顔をよく見ると、若く、いかにもインテリだった。
もう私たちに過去の遺物はないからと、カシラは眼鏡の奥であざ笑っていた。
時代は流れていくものだが、義理を忘れて生きていく時代もそう遠くないのかもしれない。
俺には、あまりにも生き難い世界になるのだろう。
ふと、こんな奴の手に湊の言っていたダイヤがあるのかと思った。
日陰者に日が当たらぬよう守ってくれるという、黒いダイヤが。
それはこんな奴の手元にあるべきじゃない。
そんな僅かな不条理への怒りが、息を持った。
意趣返しのつもりはなかった。
単に、持ち主のもとへ返してやりたくなった訳でもない。
ましてや湊の言葉に心動かされたわけでもない。
あんなことを言い残し、俺の傍で死んでいった人間は、多い。
俺も同じだ。悪の蜜をすすりながら生きていくスズメ蜂で、蝶のように無実には生きていけない。
そうはなるな、と言われても、困る。
だからこそ、あのダイヤを奪いたいのかもしれない。
この罪を明るみに照らさない為にも。
だが、そんなことを考えても俺は泥棒ではない。
ただの殺し屋だ。
博物館に忍び込んで奪うことはできない。
警備員を殺すという手もあるが、無関係な人間を殺して手に入れたダイヤなど要らない。
ふと頭に浮かんだのは、あの男だった。
サルに似た人なつっこい顔の、うるさく、しつこく、どこまでも自信家のあの男だ。
あいつなら、なんなく盗んでくれるかもしれない。
だがその考えはすぐに俺の頭から消えた。
奴に一度関わったら最後だと分かっている。
ああいう奴は、関われば関わるほどロクなことがない。
泥棒とはそういうもんだ。
柄にもないことをしようとしたのが、そもそもの間違いだったのかもしれない。
そう考えながら、ジャケットのポケットから恋人を一本引き抜く。
その表紙に、何かが落ちた。
それはいつだったか奴が俺に渡した、空欄の予告状だった。
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