「あー…やっちまったな…」
右の脇腹に熱さと違和感を覚えていた。
掌で触れると、一瞬で手が朱に染まった。
だが湧き出ているアドレナリンのせいか、痛みはそれほど感じていなかった。
これで歩くことができれば何の問題もないのだが、出血が激しいらしくどうも意識がぼんやりしていて、動きたくても動けない。
「ふー……」
不二子が助けにきてくれるまで、最低でも2時間はあった。
2時間もあったら、俺はあっという間に天国行きの船に乗せられてしまう。
この近くにアジトはないし、知り合いも居ない。
ドブネズミと社会から蹴り出されたヒトがたむろするようなこの路地裏で、助けてくれと叫んだところで身ぐるみを剥がされるだけだった。
あれ?もしかして死んじゃう?こんなちっぽけな理由で?まぁーさか?
変な余裕が俺にはあって、胸ポケットにしまっていた唇の恋人を取り出す。
僅かに残った力でライターを付けると、周りが少し明るくなる。
ただ単に美味いだけでない煙が、肺と心を満たす。
「今日は下弦の月か…」
ふと見上げれば、まるで誰かの口元のように歪んでいる月があった。
「偉そーに笑いやがって」
嘲笑っているかのような形に、俺も嘲笑を返す。
段々力が抜けて、咥えていたジタンが唇から逃げた。
ああ、こりゃちょっとヤバイかも。
そう思うのと同時に、目の前に黒い塊が見えてきた。
犬か人かも分からない。そのフォルムは、酷くぼんやりしていた。
その影は段々大きくなって、キラリと輝くものが見える。
ああ、狩りの時間か。
意識を失う直前、黒い塊が俺の脚を踏み付けたのを感じた。
**2**
どうしてこうなった、と酷くいたんだ木の板に座りながら心底がっかりした。
仕事を終えて酷く疲労していたにも関わらず、タイミングという神は余計なことばかりしてくれる。
はぁ、とため息を吐き捨てて、お気に入りのバーボンを瓶ごと煽る。
人は薬臭いと言うが、この薬がなければ俺は生きていけない。
「う…」
ベッド兼ソファーの上で、赤い塊が呻いた。
「………ここはどこだ?」
短めに揃えてある髪を撫で、独り言を呟く。
「ここは俺の家だ」
俺の声にゆっくりと男が頭を向ける。
猿だ、とだけ思う。
「…ここが家か?」
ポカンとした表情で訪ねてくる。
まぁその気持ちも分かる。
ここはとっくの昔に潰れた地下の劇場で、座席もほとんど朽ち果てていた。
天井も、同じく朽ち果てた上の建物から差し込んだ光がポツポツと微かに見えているほどだった。
ステージにだけ俺の使うソファーが1つ置いてあって、だが生気あるものはこの男くらいだった。
明かりさえも、キャンプ用のライトがいくつか地べたに置いてあるだけだ。
「嫌なら外で待ってろ」
俺だって早く寝たいんだ、と付け加えてまた酒を煽る。
俺がこの劇場の入り口の階段を下りた時、暗かったが為に、この男の生気があまりにも薄かった為に、この男を知らずに踏んづけた。
いつもなら、こんな街で瀕死の人間が転んでいても見て見ぬふりをするのだが、踏んづけたことでそれができなくなった。
それに、奴の手の中で怒鳴るように居場所を尋ねる女の泣き声がしていた。
居場所を伝え、直ぐに切った。
またかかってきたが、電話の対応までする必要はないと無視した。
女が来たらさぞかしここがうるさくなるだろう、とげんなりしたが、知らない人間を自宅に放置するのは嫌だった。
男は起き上がって脇腹辺りを確かめた。
そこには俺が縫った傷と包帯を巻いた腹があった。
「一応縫ったが、早めにヤブでもいいから医者のところに行け」
俺の技術は戦場で何度か自分の傷を縫った程度だ。
直ぐに死にはしないだろうが、素人の手当てはなにかと不安がある。
酒を煽る時にちらりと男を見ると、頭に血が行ってないのかぼんやりしていた。
「…お前って人間?」
「はぁ?」
この猿、頭までやられていたのか。
「いや、だって全身真っ黒だし。廃墟に住んでるし」
「うるせぇ」
俺の喪服スーツを指して、男が笑う。
「一瞬地獄からのお迎えかと思ったぜ。黒い塊が来ると思ったら気を失ったからな」
「俺は」
言いかけて止めた。
死をもたらす者と呼ばれ続けていることを否定するわけじゃない。
「俺は?」
「いや…なんでもない」
言いながら帽子のツバを目の下まで下げた時、外からハーレイのバラつきあるエンジン音が響いてきた。
「ルパン!どこなの!」
劇場の分厚いドアを蹴破るように澄んだ声と脚が飛んできた。
ツバを上げると、暗い劇場内だったが、いい女が歩いてくることは分かった。
コツコツとブーツの音を立て、豊満な胸と髪が揺れるのが見える。
「ふーじこちゃ~ん!来てくれたのねー!」
男が鼻の下を伸ばして女を呼んだ。
「なによ、死にかけてるって聞いて駆けつけてみれば元気じゃないの!バカ!」
舞台の仄明るい光が飛び込みの女優に当たる。
派手な女だったが、非常な美人だった。
ふじこ、という名は日本人のものだろうが、その身体はロシア美人のようだった。
「いやね、俺様も軽くやばいな~と思ってたら、そこのおにーさんが助けてくれたのヨ」
男が俺を指す。
「ま、人だったのね。真っ黒だから人形かと思ったわ」
女は不躾に俺を見た。絶対的自信と、美しさをまとった女は、俺を見下していた。
美しさは並々ならぬかもしれないが、こんな女は勘弁だ。
「ほら、行くわよルパン。ていうか、早くお宝渡しなさいよ」
男の腕を掴み、女はその細い足でその体重を支えた。
「いてて、もっと優しくして~」
男は実に嬉しそうにその身体に縋って、俺に何かを投げてきた。
一瞬腰に手が回ったが、俺の腹に落ちてきたのは一粒のルビーだった。
「今、手持ちがそれしかなくてな。治療代とベッド代にしちゃ安いかもしれないが、取っておいてくれ」
「ほらルパン、行くわよ。あなた早めに輸血しないとほんとに死ぬわ」
女は怒っているのか心配しているのか、ずるずると出口へ男を引きずっていく。
「あ、名前、名前聞いてなかったな」
出口の扉の前で、男が俺に聞く。
「俺はルパンだ。お前は?」
脇腹にあれだけの傷を負いながら、よくそんな大声が出せるなと思う。
「…ジョン・ドゥ」
「はは、覚えておくさ」
俺が名前を明かす気がないとわかると、男はハーレイの生きたエンジン音と共に月の明かりの彼方へ去って行った。
嵐のようだった。ようやくそこで一息つく。
女のシャネルらしい香水と、男の強い血の匂いがまだ色濃くそこにあって完全に落ち着くことはできなかったが、気持ちは大分静まっていく。
腹に乗っているルビーを摘まんで、明かりに透かした。
血のように赤く、大きさは親指の爪ほどあった。
もしかしたらあの男の血ではないかと思うほど赤く、なんとなく舐めてみた。
やはり鉄臭い味がしていた。
[newpage]
***3***
その夏は例年よりも暑い夏だった。
「どーしてこぅ、日本ってこんなにムシムシして暑いのかしら。カイロの方がまだ涼しいわ」
「まーまー、ホテルまであと少しだからさ」
銀座で大量のショッピングバックを持ちながら、不二子の後を必死についていく。
白いワンピースに豊かなブラウンの髪をなびかせて、桃色のレースの日傘をさしている姿はモネの描いた美人よりももっと神秘的で、女神としか言いようがない。
道行く人も老若男女全てが振り向き、その視線はこの太陽より熱い。
「もー歩けないわ、タクシーで行くから、あなた後から来て」
白亜の時計塔の下まで出た辺りで、優雅な手つきで彼女が手を挙げると、群がるように緑の車が寄ってきた。
幸運な運転手は女神を後部座席に乗せて、あっという間にホテルへと走り出してしまう。
「俺様は~?」
両手に大量の紙袋を持ちながら呆然と太陽光に炙られる。
俺もタクシーでいくか、と思ったが、今までいたタクシーは全て不二子の後を追っていった後だった。
あの女神は、人の幸せを吸い取っていくタイプの幸運の女神なのだから仕方がなかった。
地下鉄もこの頃なら空いているだろうか、と周囲を見渡す。
銀座駅、という看板を見た時、ガラスのビルの屋上に黒い何かがチラつくのが見えた。
カラスか?と目を凝らす。
いや、カラスではない。人だ。真っ黒なスーツを来た、男。
男は何を隠すようでもなく、ライフルを取り出し、獣が獲物を狙うように伏せた。
なるほど、白昼堂々、しかもこんな眩しい日に誰も上を見上げたりしないってか。
途方もないバカか、イカレた男か。
男は俺の視線に気づいていなかった。
黒い男の醸し出す異質で、どこか寂しい雰囲気は、真夏の青空の下には余りにも不釣り合いだった。
そのコントラストが面白く、久しぶりに見る野蛮な、そして絶滅なき狩りを見届けたくなった。
ビルが囲む彼方の道から、生暖かい風が吹いてくる。
その風が止んだ時、確かに尾を引くような小さな発砲音が聞こえた。
周囲の人間は誰も気づいていない。
音がしたことに気付いた人間はちらほら居たが、誰もそれが、狙撃手が獲物を捕らえた咆哮だとは思わない。
広い通りとは言っても、狙撃手にとっては赤子の手を捻るような仕事だったろう。
1分ほどすると、ガラスのビルの向かいにある、レンガのビルの方から人の叫び声、出口に逃げ出してきた人が群がり、ざわめきが辺りに満ちた。
男は、信じられないことにビルの屋上に飄々と立っていた。
まるで自分が幽霊か何かと思っているようだ。
他の人間に俺の姿など見えはしないと。
そこで何かデジャブを覚えた。
その感覚を確かめようと、ショッピングバッグを捨て、持っていた小型の望遠鏡でビルの屋上を覗いた。
しかし既に男はいなくなっていた。
ああいう輩を追ってはいけないとは分かっていたが、無性に追いかけたくなった。
アリスが時計ウサギを追いかけたように、この異世界の存在を見つけたら、追いかけなくてはならない。
何も知らず余所からやってきたタクシーがサラリーマンを下ろしているのを掴まえて、ショッピングバックを後部座席に放った。
「運ちゃん、悪いんだけっども、この荷物ホテルまで頼むわ」
あるだけの金をそこに置いて、ガラスのビルへと走った。
あの屋上からエレベーターを使っても30秒はかかる。
まだそう遠くには行ってないだろうとビル裏を見渡すと、チェロケースを背負った男が角を曲がっていった。
追いかけてその角に背を付き、奥の様子を伺うと、俺の鼻先にはリボルバーが向けられていた。
「あらヤダ」
ぐい、と銃口を突きつけられて、小さく手を上げる。
「……」
黒を纏った男は何も言わず俺を見ていた。
「失せな。記者か野次馬かはわからねーが、今見たことを言えば殺す」
一度聴いたら忘れない声だった。
奴が担いでいるのはチェロだったが、こいつの声はもっと低く、濃い。
「待てって、命の恩人を見つけたから、追いかけてきただけさ」
「恩人?」
何処までも黒い帽子が隙間風に吹かれ飛びそうになるのを、男が左手で抑える。
顎にだけ伸ばした髭と固い唇、よく通った鼻筋の他は見えない。
「いつだったか、おまえさん俺の腹を縫ってくれただろ」
そこまで言うと男も思い出したらしく、少しだけその黒い目を俺に向けた。
「猿の恩返しはいらねぇ。もっともこのタイミングで現れたとなっちゃ、その命も無駄になる」
「ま、そうだろうな。警察も直ぐにやってくる、というか、来てるし。早く逃げたいところだよな」
赤いサイレンがビル裏にも響いてくる。
男は舌打ちして、銃を下げた。
「追うな」
それだけ言い捨てて、男はチェロケースを背負ってその場から立ち去った。
俺が残したメッセージには、気付いていなかった。
**2**
「…ちくしょう」
ホテルに帰り、チェロケースをベッドに放った。
広いソファーに寝転がって、ヤケ酒のようにスコッチを煽る。
「なんなんだ一体…」
昼間出くわした男を思い出して、不快指数がまた上がる。
汗でシャツがベタついているのにもイラついていたが、シャワーに入る気にもなれない。
あの男、今日は緑のジャケットだったが、いつだかどこかのダウンタウンで助けた男であることは分かった。
あの後、ルパンと女が呼んでいたのを同業者に聞いて、度々世間を騒がせているルパン三世とかいうコソ泥ということも知っていたが、すっかり忘れていた。
あの男の仕事と俺の仕事が関係しているようには思えなかったが、何か裏があるかもしれない。
突然、音が扉から聞こえてきた。
ルームサービスでぇす、と若い女の声が壁のインターホンから聞こえてくる。
無視してしまえと気配を消すと、また後ほど参りまぁす、とインターホンの画面が黒に戻る。
ここに長居はできない、とチェロケースをクローゼットの中に隠した。
このライフルの処理は雇い主達がやってくれる予定だったが、俺の痕跡が残るこの部屋に置いていくのはいささか不安だった。
だが、持って歩くにはデカ過ぎるし、目立ち過ぎる。
最低限の装備で慎重にドアを開くと、何かにぶつかった。
ルームサービスの食事が乗せてある台車だった。
「あ、やっぱり居たんじゃない。居留守なんてつれないわね」
また若い女の声がするが、女は廊下の何処にもいない。
「ここよ、ここ」
コンコン、と扉から音がする。
にょき、と頭が扉と壁の隙間から出てくる。
「誰だ、からかうのもいい加減にしろ」
銃を向けると、そこにはついさっき見た男が立っていた。
「あれ?名乗ったことなかったっけ?」
声がこの男のものに変わる。ありふれた声ではない。
猿顔の、緑のジャケットに黒いシャツ、黄色いネクタイの男。
どこまでも黒い瞳が俺を見ていた。
「俺の名前はルパン、ルパン三世」
ニコ、と人のいい笑みを向ける。
「俺に何の用だ、付きまとうのは止めろ」
こんな風に粘着質に人を追う輩にろくな奴は居ない。
「いや、さっきのお前の腕を見て、ぜひ仕事が一緒にしたいと思ってね」
「あんなぐらい、素人にもできる」
200ヤードもない通り、風もなく、対象の頭を打ち抜くのは至極簡単だった。
真夏の蜃気楼など、俺の目を霞ませるには役不足だ。
「謙遜するなよ。あ、俺からのメッセージには気づいてくれた?」
「メッセージ?」
「そのボルサリーノの後ろにカードを一つ」
銃を構えたまま、帽子の後ろに手をやる。
確かに、名刺サイズのカードが挟まっていた。
「これは」
「俺様への連絡先さ。その気になったらいつでも寄こしてくれ」
んじゃ、また会おうぜ!と男は堂々と俺に背を向けて廊下の長い彼方へ消えた。
男の姿が見えなくなってしばらく、俺は呆気に取られていた。
プロともあろう男が帽子に悪戯されるのもそうだが、俺の正体を知りながら堂々と背を向けるその自信過剰さに。
手に持っていたカードの事さえ一瞬忘れていて、奴が去ってからようやくその文面を見た。
『 をいただきます ルパン三世』
肝心の何を頂くかは、透かしても何も分からなかった。
これのどこが連絡先なんだよ、とも思ったが、ただの奴の気まぐれとも思えた。
とかく、逃げなければ。
俺の脚は奴とは反対の方へと歩き出した。
**2**
真夏は昼間よりも、夕暮れ時の方が暑い。
それでいて、陽が落ちるのが長いのだから余計に酷く感じた。
だがもう少しで、黄昏時はようやく俺たちの世界を引き連れてくる。
繁華街を抜け、少し郊外へ出ると、まるで時代劇のセットのような家にたどり着いた。
俺の嫌いな靴を脱ぐタイプの家が殆どなのが、日本の嫌なところだ。
木の大門に着いた近代的なインターホンを鳴らすと、俺とはまた違う黒スーツとサングラスの男が出てきて俺を屋敷の中に入れた。
とある障子の前で男は跪いた。
そして数ミリだけその障子を開けて、次元が戻りましたと声をかける。
「入れ」
年老いた声が、障子の隙間から漏れ出てきた。
俺が立ったまま障子を飲み屋の引き戸のように開けると、黒スーツは俺を睨んだが何も言わなかった。
「遅くなってすまない」
靴下で畳を踏む。障子はサングラスの男が何も言わず閉めてしまった。
「サツに感づかれたのか?次元」
雇い主の男が、人のいい笑顔で俺に行った。
武家屋敷のようなこの家によく似合う男は、江戸時代の隠居のようにキセルを吸っていた。
「仕事に抜かりはない」
「まぁ、それは確かなようだな」
プツ、と和室にはあまり似合わない分厚いテレビの電源が付く。
そこには歩行者天国だった道は警察者天国になり、報道のヘリも姦しく飛んでいる映像が写っていた。
『本日午後13時、何者かによる狙撃事件が発生しました。被害者は海猫組幹部と見られ…』
「野良猫一匹程度で試して悪かったな、今日からお前を信用してやろう」
「…そいつは光栄だ。だが、こんな派手な仕事は困る」
音もなく男が笑う。線香にも似た、ごくわずかな香りが鼻に届く。
「こいつが最初で最後だ。派手なことは俺も好きじゃない」
男は真っ白な和服、まるで死人が着る白装束を着て俺に封筒を差し出した。
「海猫組か、うちの湊組が壊滅するまでの金だ。まあ、長くても1年だな」
封筒の中を確かめると、金額の書かれていない小切手が入っていた。
「俺は現金でと頼んだはずだが?」
「次お前が提示した金と、お前の仕事が釣り合わねぇと思ったのさ」
「…俺は金の為にやってるんじゃない」
「そうだとしても、あんまり自分を安売りするな」
ふふ、と男は白い髪を撫で、目じりにカラスの足跡を浮かび上がらせた。
「そうだ次元、お前は漆黒のセイレーンというブラック・ダイヤを知っているか?」
湊がそう言って俺に一枚の写真を懐から寄越した。
皇族のような上品さをもった40の頃の女が、手に真っ黒なダイヤの指輪をはめ愛しそうに見ている。背景はよく晴れた青空で、この屋敷のどこかに見えた。
ダイヤは全く輝いておらず、ただの黒い石にしか見えない。
「どこかの貴族に代々伝わってきたとかいう、光を反射しないダイヤのことか」
「ああ、今は海猫組の傘下にある海王博物館にあるものだ」
白い男に写真を返すと、女を懐かしげに見た。
「どんなに強い光を当てても、太陽の下以外では決して反射しない。光を吸い込むダイヤだ。
俺たちみたいな人間にとっては、正体を隠してくれるお守りみたいなものだ」
「…何故それを俺に話す」
「ただの、世間話さ」
男が、干からびた微笑みを写真に向けた。
ありきたりな予想でいけば、女ごとダイヤを敵方に取られたというところか。
男は枯れ枝のような脚で立ち、部屋の隅にあった箱から酒瓶と猪口を取り出した。
「お前も飲まないか。上物だぞ」
「俺は洋酒しか飲まねぇ。悪いが遠慮する」
これ以上話に付き合う必要もなかろうと、踵を返した。
障子を開けると、むわりとした湿気のある熱と、蝉のカルテットがけたたましく聞こえてきた。
不思議だ。たかが障子一枚で。
「夏だな」
夕焼けに空が焼けつくされていく。綺麗だとは思わないが、嫌なものでもない。
「俺はもう蝉を追いかけることもできないが、ガキの頃は来る日も日に焼かれていた」
キセルを咥え、焼き焦げるオレンジの空と、燃え煮立った赤い雲を見上げる。
「次元、お前はガキの頃、夏はなにをした?」
「……俺に夏が来たことはない」
ガキの頃の夏など、記憶は何もない。
思い出したくないワケじゃない、何もなかった。思い出も記憶も。
来年の夏もない。きっと50年後の夏も。
障子を音もなく閉め、思い出を愛でる老鳥の巣から出た。
[newpage]
***3***
「ふ~じこちゃん、ただいまー!」
ホテルの最上階で薔薇の花束を抱えながら叫ぶ。
奥ではテレビの音が聞こえているが、返事はない。
「ごめんごめん、戻る途中で不二子ちゃんによく似合う薔薇を見つけちゃってさ~遅くなっちゃった」
億ションのリビング並の豪華な部屋の真ん中、白い革張りのソファーで不二子はむっつりと頬杖を付いていた。
白いワンピースは脱ぎ捨て、今は背中と胸がざっくりと空いた紫のドレスだ。
「あらルパンお帰りなさい。私これからディナーに行くから、あなたも好きなところへ食べに行ったら?」
「へ?今日は俺とフランス料理のディナーの約束じゃあ」
「誰かさんが遅いから、キャンセルしちゃったわ。私は素敵なおじ様とディナーがあるから、気にしなくていいわよ?」
ハートの女王のように気まぐれで我侭な不二子は、俺に待たされたのが余程頭にきたらしく、笑顔で怒っていた。
「ま、待ってくれよ不二子~!これ買ってたら遅くなっちゃたんだって、待たせる気はなかったんだよ」
「どーせ他の女の子ナンパしてたくせに、口と偽証拠作りだけはご立派ね」
ばしん、と薔薇を叩き落す。
「女の子はナンパしてないって、ほんと、ほんとだってば~」
「もう!離して!ルパンなんか嫌い!」
ベシッと白い手が右頬を叩く。
そして左頬を差し出す暇もなく、縋り付きたくなるようなドレスの裾はためかせて出て行ってしまった。
「俺の晩飯は…?」
嘆いたところで不二子は帰ってこない。
ルームサービスで一人寂しく食べるのも嫌だし、一人でレストランも嫌だ。
ふと、ならばアイツを誘ってみようかと考えた。
不二子以上に難易度が高いことは分かっていたが、難しければ難しいほど、俺様は燃える。
「不二子も俺を放ったらかしにしたら浮気しちゃうんだからな~~」
薔薇の花束を拾い上げ、不二子が残した絨毯の足跡に歩調を合わせた。
**2**
港の邸宅を出て、俺は新宿を歩いていた。
昔に比べたら、ここらも歩く人間の層がまともになっているように思えた。
だが俺がそこまで浮かない時点で、まだ闇は多いと見た。
どこか適当なバーでもないかと少し狭い路地に入る。
喧嘩もゴロツキもいない、静かな通りだった。
ふと、ドブ臭い空気に薔薇の匂いが混じった。
女の香水でもない、と思っているうちに、ハラハラと赤い花弁が俺に降り注ぐ。
反射的に腰のマグナムを掴み、狭い空を見上げる。
そこには誰も何もない。星もなく、ただただうす明るい夜があるだけだった。
「気のせい…でもないな」
ジャケットとシャツの隙間に、赤い花の欠片が挟まっていた。
風の悪戯かと歩き出したとき、すぐ後ろに気配を感じる。
「誰だ!」
手にしていたマグナムを背後の影に突きつける。
影は口元にシガレットを咥え、クセのある香りをくゆらせていた。
大通りの光が逆光になって、口元を仄明るい炎が照らす他、人相はわからない。
「んふ、もう忘れちゃった?」
にや、と下弦の月のように男の顔についた切り口が歪む。
「…またお前か。今度は何の用だ」
なんてことはない、男は昼間目にした猿顔のコソ泥だった。
だがあの気配の消し方は、正直身構えた。
「今からバーにでも入って一杯やろうと思ってたんだろ?改めて礼もしたいし、奢らせてくれよ」
にへら、と害のない笑い方をする。
だが、気配を消して近寄って来た男と酒を飲む趣味は俺にはない。
「礼なんざいらねえ、どうしてもしたいってんなら、俺の前から消えろ」
「そんな邪険にしないでよ、ほんとちょっと話がしたいだけなんだって」
「しつこいぞ。ここがどこだろうが、直ぐに消えなければ撃つ」
「わーったよ、ほんとに硬いなぁ。そんなんじゃ女にモテねぇだろ」
「お前に心配されることじゃない」
マグナムの撃鉄をゆっくりと起こし、男の心臓を見据える。
「今日がダメなら、また機会を伺うさ」
男がバチ、と音が立ちそうなほど綺麗なウインクを当てる。
「いいから早く失せろ」
ハイハイ、と男が上を見ると、真紅の花弁が、今度は大量に降ってくる。
その赤い雪崩に飲まれた一瞬後には、薔薇まみれの俺だけが呆然と立っていた。
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