旧・向日葵ヶ丘


「次元ちゃん」
食事を終え、風呂を済ませた後のソファーの上。
ルパンが俺の指に白く長い指を絡ませてきた。
俺のくすんだ肌色とは違い、白人の肌には黒い毛がよく目立つ。

男の手だ。そんな当たり前なことを感じながら、握られた力を返さず見つめる。

指は例えるなら、愛を紡ぐ器官だ。
愛しい人に触れた時に出る赤い糸を、指先で紡いでいく。
温もりを与えるマフラーも編めれば、その首を括る太い縄だって撚り上げることだって出来る。

「お前さ」
「んー?」

俺の乾燥した手の甲にルパンが唇を当て、啄ばむようなキスをしている。
唇は言うなれば愛を囁く器官だ。
だから、キスをされると俺に恋しろと言われているような気分になる。

「俺なんかとこんな事してどうしてえんだよ」

奴の気まぐれで始まった恋人ごっこに疑問を持ち俺は尋ねる。
俺も俺で拒否すれば良かったんだろうが、いつも仕事で押し流されるクセのまま受け入れていた。
嫌ならこんな事は許さないのだが、続けたいかと言われれば、霞がかかったように答えが隠れる。

「どうしたいって言われてもなあ…愛してるからしたいだけだし」
「…女にしてえ事、俺でやってるだけだろ」

あの女は絶対に、押し流されてこいつに愛されるなんて事は許さないだろう。
こいつはこいつで、不可能と分かっている事もやり抜ける術を知っているから、焦りを見せず悠々とあの女を泳がせ戯れる。

「嫉妬してるのか?」

せめて否定しろよと思いつつ、俺は手を乱暴に離してポケットの中に深く仕舞い込んだ。

「嫉妬なはずあるかよ」
お前が好きだなんて一度だって言ったことはない。

「じゃあいじけてる」

ルパンは構う様子もなく、寝巻きのシャツを着た俺の首に唇を寄せてきた。
剥き出しの急所は無防備で、喉で押し殺した声が思わず漏れた。

「俺様が代わりなんかで満足する男に見えるのかよ。俺はいつでも本物しか愛さないって、お前もよく知ってるだろ?」

声が歩み寄るように、意地悪に笑う唇が耳に寄せられた。
鼓膜に間近い場所で囁かれると脳に響く。
嘘つけ、という言葉は直ぐに喉から溢れる。

お前の言葉は阿片だ。
酷く気持ちが良くて、何度も欲しくなる。
だがお前の口から出るそれは虚無にも等しく、俺の身体を蝕んでは毒と快楽を与える。

もし、お前から離れたいと一言でも言えば、俺はその言葉を直ぐ様取り消したいと思うだろう。
お前も俺の肚がはち切れる程にその麻薬を俺に飲ませて、そんなこと二度と口走らないようにするだろう。

「んッ」 

俺の両手首を引きずり出し、唇でソファーの皮の上に押し倒す。
啄ばむキスを何度も繰り返し、俺の脚の間に身体を挟ませ、苦しいほどに体重を押し付けられる。

「お前のそのハイドアンドシークみたいないじけ方、可愛いな」
「なんだよ、ガキっぽいって言いたいのか」
「わざと尻だけ見せて、探してって言ってるからさ」

違う。俺は探して欲しいんじゃない。

「わけ、わかんねえよ、ん」

返事をもみ消すように唇がまた被さって俺の上顎を舐めてくる。

やめて欲しいだけなんだ。
盲目になれない、こんな半端な事は。

「何にも考えられなくして欲しいんだろ?たまにはストレートに伝えたっていいんだぜ」

ああ、それは半分正解だ。

俺の全ての思考を、止めて欲しい。
こんな事は止めるべきだと思う心の息の根を止めて欲しい。
同時に存在する、もっと深くまで溶け合いたいと思う感情を殺して欲しい。

でも、サディストなお前は俺を生殺しにして眺めている方が楽しいんだろう。

「このセックスが終わったら、お前の相棒を、辞める」
「まぁたそんな事言って」
「…もうお前とは終わりだ、金輪際。こんな腐った関係、俺はごめんなんだよ」

ああ、もう出した言葉を取り消したい。
だが今日だけは、牙を剥かせて欲しい。
俺の心が矛盾の狭間で苦しむのを止めるために。

「俺様にそんな見え透いた嘘吐くなんて、そんな馬鹿だったか?お前って男はよ」

俺の心をガラスを覗くように見透かす男が怖くなる。
出会ってから後の事は全部、何もかも明け透けに、露わにしてしまった。
過去でさえ、殆ど調べ尽くされているに違いなかった。
隠すことなど、何もできない。

「次元…」

耳に触れるほどの近さで囁かれると期待に肌が粟立つ。
シャツのボタンをすくい上げるように外し、腹の銃槍にルパンの掌が被さる。

「お前は何が欲しいんだ?ちゃんと言えば、くれてやるぜ」
「お前なんか、盗むことしかできねえくせに…」

心を殺して奴を押し退かそうと爪を立てて腕を突っ張る。
そして俺がソファーから降りようとした時に、背中に飛びつかれ絨毯の上へ乱暴に引き倒された。

「お前も言うようになったなぁ」
首を横に向けて右目だけで奴を見上げると、深淵の瞳が俺を嘲笑うように見下して帽子を取り上げその頭に被せる。

「当たり前だ。何年一緒にいると思ってる」
「んー、3年と168日かな?」
その桁外れに回る頭が即座に計算し、あと9時間34分だったけと俺の背中に数字を描く。

「…お前に振り回されるのはもううんざりだ。命に関わる無茶をするのも、女に騙されて火の粉を被るのも、お前の遊びで身体開かされんのも……」

もう嫌だ。
本心ではないが、いつか言ってやりたい言葉だった。
誰よりも贅沢で、我儘で、危険で底知れぬ男に知らせてやりたかった。
そう感じている俺もいると。

「本気でそう言ってんのか」
ルパンがうつ伏せの俺を仰向けに転がして腰に座ってくる。
俺の帽子をお前が被ると、お前に身を預けているようで好きじゃない。

「次元、答えろよ」
「…お前の玩具にされるのは、ごめんだ」

言葉が終わったほんの少し後に、パンと平手で右頬を叩かれた。
派手な音が立ったが、痛みはほとんどない。
見せかけの暴力だ。

まるで目を覚ませというような掌に左を向かせられたまま、口を開く。

「俺の人生だ。勝手にさせろ」
「次元、天邪鬼で駄々なんかこねて、お前らしくねえじゃねえか」

押してもダメなら引いてみろと言わんばかりに今度は優しい手つきで叩いた頬を撫でる。

「何が気に入らない?お前にヘソまげられると、俺様結構困るのよね」

そんな事を言いながら、喉元から伝ってきた唇が俺の口を塞ぐ。
セックスを始めようという時の、熱っぽく焦らすような呼吸と舌の駆け引き。

その手が俺のスラックスに忍び込もうとした時、俺は思い切り奴に頭突きをかました。
ゴン、と鈍い音が部屋に響く。

「いっでぇえ〜〜!!!」
「ヤらねえって言ってんだろ!」

自分自身の額もかなり響いた。
ズキズキとする頭蓋骨の痛みに、脳が揺れてクラクラする。

「どうしてそお今日はご機嫌ナナメなんだよ〜」
額を抑えて奴がおお痛えと呻く。

お前がはぐらかすからだ、という言葉は飲み込み、帽子を奪い返し自分の頭に戻してツバを下げる。
 
「…もしよ」
「んだよ」
ルパンは絶対コブになる、とブツブツ言いながら額から手を離して俺を睨む。

「お前が盗み忘れたものを俺が知ってたら、どうする」
「どうするって、もちろん教えてもらうさ」
「俺が教えないと言ったら」
「…理性ぶっ飛ぶまで犯して、聞き出すかもな」

俺の回りくどいメッセージにも機敏に気づいて、暴力にエクスタシーを感じる男の目を見せる。
その悪い顔は嫌いじゃなかった。
そんな時は、お前は本気でいるから。

「なあ、俺は盗み忘れてなんかいやしねえよ」

天井の薄暗いランプに奴の顔が陰っている。
それでも、悟すように優しい声と微笑みは染み渡るように俺に届く。

「…嘘だ」
「疑ぐり深い、愛しいハニー。よく聞いてくれよ」
「………」
「俺が今までお前から盗んだものは沢山ある。身体も、心も、愛も…お前の孤独も」

器用で細い指先が頬を撫で、親指で唇の形を確かめるように押してくる。

「それだけじゃ足りないか?」

ルパンが自身の黄色いネクタイを解き、俺の手首を胸の前で縛り上げた。
だがそれは見た目の割に緩過ぎる拘束で、少し力を入れれば解けてしまう。
マジシャンが使う、堅牢に固定したと思わせて実は縛り上げてなどいない。
そんな束縛だ。

「お、おい」

この男の思惑に乱されて、どういうことだと自分の手首を見た後に、その顔に視線を向かわせる。
男の表情は、まるで仕方のないやつと言いたげでだった。
その優し過ぎる顔に、羞恥を感じて顔を逸らした。
だが掌が俺の顎を掴み、見ろと言わんばかりに視線を戻してしまう。

「全部盗んだと見せかけてたのにさ。お前って察してくれない男よね」

唇を重ねる時の、瞼を伏せる睫毛のはためきが俺に当たると、まるでバタフライエフェクトのように俺の心が扉を開けてしまう。

「お前がそう言うなら、もう構わねえぜ」

それはやはり、暴力にエクスタシーを感じる男の眼だった。
俺は、その眼に安堵と恐ろしいほどのクライシスを確かめる。

もう戻れなくていい。
お前の闇の中に俺の全てを突き落としてくれ。

言葉は出ない。
だが、ルパンは俺の視線からそれを読み取っていた。

「これからの時間の1秒たりとも取り零さない。人生もお前の中の感情も思い出も何もかも、全部盗んでやる」
「ルパン…ッ」

ぎゅうと息を忘れたくなるほどに抱きしめられる。
だが抗う事は出来ず、弾けてしまいそうだと思うばかりだった。

「お前が屍になっても、向日葵色のダイヤにして俺の肌身から離さない。俺がくたばるまで、お前も道連れさ」

狡猾なのに、芯に愛念を満たしている背中に触れたい。
でももう、縛られた手を解くことが出来ない。

お前は誰のものにもならないくせに、手を伸ばさせてもくれやしないのに、俺を真に愛してると嘯く。

それでも、その言葉が真実だと信じたい俺がいる。
疑心さえもお前に盗まれてしまうなら、蝋人形のようにお前を見つめるしかない。

まるでジョージ・オーウェルの書いた小説のようだ。
お前がそうだと言えば、俺はどんな矛盾があってもお前の全てを信じる。

「ルパン…」

喉がそれだけを覚えさせられたレコーダーになってしまう。
ただ、お前を見ていたい。
魂を脱ぎ捨てて、ただお前に愛されていたい。
イエローのシルクで出来た縄が解けないように胸を押し、ルパンの瞳を見た。
ブラックなのか、グレーなのか、ブラウンなのか分からない虹彩に見入る。
ああ、この穿孔に飛び込んでしまいたい。
そう感じていると、ルパンの唇が繊月のように笑った。

「…次元、もっと俺を見つめな。動かすのは心臓だけでいい」

被さった柔らかく薄い唇から差し出される舌先を深く感じながら、漆黒の睫毛を見つめる。

そうすれば、終わりのない闇に堕ちていくのを感じた。






end