パラフレーズ


「おい、なんだよコレ。こんなのと寝る趣味なんかねえぞ」
大仕事を計画して数日後、ルパンは狭いワンルームのアジトにとんでもないものを持ち込んだ。
それはグランドピアノと呼ばれるもので、十五帖あるリビングでもあまりにも大物過ぎた。
分解されたピアノを奴は室内で組み立て、部屋に入りきらないソファーとテーブルは捨てられてしまった。
「仕方ないでしょ~、仕事道具なんだから」
黒で塗り固められた天板を持ち上げ、中の状態を確かめる。
それから調律がどうのこうのいいながら、音叉を鳴らしていた。
「そうだ、今この瞬間から煙草はこの部屋で吸うなよ」
「なら、どこで吸えってんだ。この部屋意外に部屋があるように見えるのか」
地価の高騰したマンハッタンでは、俺たちでもワンルームを一つ借りるのでやっとだった。
もし次の仕事が失敗すれば、二人して破産だ。
「ベランダがあんだろうが」
ルパンは鬱陶しそうに言いながら、鍵盤を鳴らす。
音に狂いがないことを確かめると、フランツ・リストの曲を手当たり次第に弾き始めた。
こうなると俺が話しかけても、ルパンは無視する。
諦めて向かいのビルの壁が迫るベランダに出て、煙草に火をつけた。
ルパンはどんな曲も簡単に弾いてみせる男だ。
しかし誰かに追いかけられているかのように忙しいリストの旋律に、珍しくところどころで躓いていた。
仕事でやっているのだろうが、何の準備かは見当がつかない。
煤けたガラスの向こうに詰められたピアノの音は、思いのほかベランダへは聞こえてこない。
ルパンはそれから三日ほど、朝から晩まで何度もリストの生涯を巡回した。
指の先が擦り剥ければ、絆創膏を貼った。
無精ひげがすっかり伸びても意に介さなかった。
俺はベッドに寝てみたり、ベランダで壁に煙を吹きかけたり、銃の手入れをしたり、いつも通り過ごしていた。
だがあまりにも相手にされないため、暇を持て余していた。
外に出たいが、都合の悪い誰かに存在に嗅ぎつけられてはたまらない。
つまり、部屋に居てこのリスト地獄の中で、ゆっくり狂っていくしかやることがなかった。
「風呂ぐらい入れよ、臭いぜ」
夜中の十一時、俺は黒いシャツの背中に話しかけ、無視された。
今、この男の目には鍵盤以外のものは見えていない。
俺はベッドの端に腰を下ろして、鍵盤の外にある拍子木に頬を乗せてルパンの顔を見上げてみた。
ルパンは無表情に、俺が見ることのできない何かを鍵盤の奥に見ていた。
その表情は狂気に踏み込んでいるのだが、俺には酷く魅力的に見えた。
俺はしばらくその顔を見た後、鍵盤の上を走る、血の滲む絆創膏に包まれた指先を見た。
そうしているうちに、いつの間にか眠ってしまっていた。
気がつけば朝を迎え、薄明るい光が部屋を満たしていた。
ルパンは目の前から消えており、シャワーを浴びる音が浴室から聞こえている。
しばらくすると、無精ひげを剃り小ぎれいになった顔でルパンが出てきた。
「準備は終わったのか?」
俺が尋ねると、下着一枚のルパンが髪を拭きながら口を開いた。
「そうでもねえけど、休憩しようと思ってさ。とうとうお前がこいつと寝ちゃったから」
ルパンはコンコンと開いたピアノの拍子木を叩く。
「妬けたから、次は俺と寝てよ」
ルパンは言いながら、俺をベッドに突き倒した。
俺もシャワーを浴びたいと伝える前に、口づけに縫いつけられた。
単なるフラストレーションの解消であることを知りながら、俺は目を瞑ることにした。
そして狂気の手前にいるあの表情を思い出せば、欲情が身体を満たした。

嫌というほど情欲を満たし、ベッドの上からピアノを蹴飛ばし、薄暗い朝をもう一度迎えた。
俺はベッドに寝転がり、天井を見ながら情事の後の恍惚感に浸っていた。
ルパンしばらく俺の隣にいたが、突然思い出したように起き上がった。
それからベッドの縁で足を組み、血と汗でふやけた裸の指先でジタンに火をつける。
「禁煙じゃなかったのか」
「いいんだよ、こいつはもう用無しだからな」
言いながら拍子木を軽く握った拳で叩いた。
「分からねえな。昨日まで狂ったように弾いてたのは、何のためだったんだ」
「お宝の暗号解読さ。ピアノの鍵盤上でしか現れないシロモノで、プロのピアニストでもなけりゃ分からない」
ルパンはそう言って楽譜の分厚い束を部屋に舞い上げた。風のない部屋で、ひらひらと紙切れたちが自由に落ちてくる。これが来週末には、札束に変わることは確実だった。
「つまりは鍵が掴めたってことか」
「そういうこと。とはいえ鍵が掴めただけで、鍵穴がどこかが分からねェ」
「おい、決行は来週末なんだろ。間に合うのかよ」
「ふぁーア……ひとまず寝てから考えよーぜ」
ルパンは大きな欠伸をして、煙草を拍子木に擦りつけた。
そして俺を巻き込んで再びベッドに転がる。
ルパンはうつ伏せになり、俺はそれに押し潰されるように仰向けになった。
薄明るい窓を見上げれば、一筋の線になった薄灰色の空に鳥が何羽か飛んで行った。
ふと、ルパンという男にとって俺とこの音を鳴らす無機物に、何の差があるのだろうかと考えた。




end.